CD No.:GZCA-5021  Release:2002年10月23日

曲目 作詞 作曲 編曲
1. Fairy tale
〜my last teenage wish〜
倉木 麻衣 徳永 暁人 徳永 暁人
2. Feel fine! 倉木 麻衣 徳永 暁人 徳永 暁人
3. Ride on time  倉木 麻衣  徳永 暁人 徳永 暁人
4. key to my heart 倉木 麻衣 大野 愛果 Cybersound
5. Winter Bells 倉木 麻衣 徳永 暁人 徳永 暁人
6. Loving You… 倉木 麻衣 大野 愛果 Cybersound
7. Can't forget your love 倉木 麻衣 大野 愛果 Cybersound
徳永 暁人
8. Trip in the dream 倉木 麻衣 大野 愛果  徳永 暁人
9. Not that kind a girl 倉木 麻衣 YOKO Black.Stone YOKO Black.Stone
10. Like a star in the night 倉木 麻衣 大野 愛果 徳永 暁人
11. 不思議の国 倉木 麻衣 大野 愛果 池田 大介
12. fantasy 倉木 麻衣 大野 愛果 徳永 暁人

オリコンデータ
最高順位1 位
登場回数37 回
初動枚数404,010 枚
累積枚数745,812 枚


 はっきりと言おう。この「FAIRY TALE」は倉木麻衣の最高傑作である。いやそれだけにとどまらず,世界ポピュラー音楽界においても,きわめて注目に値するアルバムと言うことができる。

 「Perfect Crime」のところでも述べたように,この「FAIRY TALE」は優れたトータルアルバムということができる。その片鱗はすでに「Perfect Crime」にもあった。しかし,試行錯誤的であった「Perfect Crime」に対し,この「FAIRY TALE」は明確な意図を持ってコンセプトが作り上げられ,ただ楽曲だけではなく,アルバムジャケットも(帯までも!レーベルマークも),そしてプロモーションビデオまでが一体化した一つのコンセプトを持ったトータルアルバムとして制作されている。1960年代の,ロックがもっとも華やかだった時代を知る者にとってはまさに感涙ものである。そして,そのコンセプトとは,タイトルとおり「おとぎ話」である。しかし,その裏に見え隠れするのは「おとぎ話を信じることができたこども」から「もう信じることができないおとな」へ移行する10代後半の少女の危うげな心情。つまり,この時期の「青年」「もう"こども"ではないが,まだ"おとな"でもない」という非常に中途半端な時期に当たる。そこには「青年心理学」「マージナル=マン」と呼ばれる,非常に危うい人間の姿が浮き彫りとなる。この「FAIRY TALE」において,倉木はその「マージナル=マン」の危うさ・脆さを背負い込み,こども時代を振り返りながらも,未来へ向かっての第一歩を踏み出す宣言を行っている。控えめに見ても「21世紀のエミール」と呼んでもいいのかもしれない。

 アルバムの曲構成にも注目したい。

 作家陣の顔ぶれを見て気がつくことは,このアルバムから作曲家が前回までの大野愛果中心から,大野=徳永暁人併用路線に転換していることである。しかしそれだけではなく,際立った特徴は,徳永の曲がアルバムの前半部分(昔のLP時代で言えば「A面」に当たるところ),大野の曲が後半(B面)に集中していることである。

 一般的傾向として徳永の曲はパワーとスピードに優れ,大野の曲は繊細な芸術性に優れる。その両者の曲をこの順番で配置することにより,このアルバム全体の「音楽的ムード」が規定される。すなわち,まるでジェットコースターにでも乗ったような勢いで,スリルとサスペンスに満ちた旅を経て異次元空間に到達した我々聴衆一向は,途中からその異次元空間の中に浮遊し,さまざまな幻想世界を経験し,そして倉木とともに成長し,自分を見つめなおして現実へ帰ってくる。その旅は計算しつくされた次元旅行である。おそらくはプロデューサーの西室斗紀子氏の手腕と思われるが,まさに「天才は天才を呼ぶ」というお手本のような事例であろう。


 ここで,少し紙面を割いて「FAIRY TALE」の下敷きとなる「青年心理学」のお話をしたい。

 「青年期」とはいつごろのことを言うのだろうか?

 我々が,青年期,あるいは若者という言葉を使うとき,一般的には高校生から25歳前後の人間を指すことが多い。しかし,本当の意味の「青年期」はそれよりもはるかに大きな意味を含んでいる。

 まず一つは「肉体的」な意味での「若さ」「青年期」があげられる。

 肉体的には「青年期」とは「成長期」である。そう考えれば人間の成長期は大きく分けて2度,二つの意味を持って存在する。一つは生まれて直後の「赤ん坊」の時代であり,もう一つは小学校高学年から中学生の頃である。しかし,若ければ若いほど「青年」と言うわけではない。なぜなら,「"若い"赤ん坊」というものは存在しない。赤ん坊は,"若い"のではなく"幼い"のだ。

 確かに,3,000グラム前後で産まれた赤ちゃんが,1年後には3倍以上の10キログラムぐらいになる。これは,ものすごい成長速度である。ところが,この"生気に満ちあふれた"ような赤ちゃんが,実は,人間の一生の中で,最も危険な時期であることも,また確かなのだ。

 生後1年までの赤ん坊は,他の動物と比べても,非常に病気にかかりやすく,死にやすい。そのひとつの理由は,人間が進化の過程で,母体への負担を軽減するため,妊娠期間を短縮してきたことにある。これを「生理的早産」と言う。実際,ゾウの妊娠期間は約2年もあり,一般に野生動物の赤ん坊は,生まれると間もなく,目も見え,自分の足で立って,親の後をついて歩くことができる。弱肉強食の世界ではそれは当然のことであるのだが,人間は文明というバリアに守られて,自分の足で歩けないどころか,目も見えず,まったくの無防備状態でこの世に登場するのだ。そして,生後1年間に急激な成長を続けるのだが,この間は,身体的に非常に危険な状態である。

(蛇足ではあるが,さらにつけ加えれば,人間がもっと激しい勢いで成長する時期がある。それは妊娠期間中であるが,顕微鏡でなければ見えないような卵子が,3,000グラム前後まで成長するのであるからこれにまさる成長期はない。しかし,これこそが流産・死産など,人間がその人生において最も生命の危機にさらされる時期なのである。)

つまり,「"成長期"は生命にとって危険な時期」なのである。

 ところで,人間がもう一度,激しく成長する時期がある。それが,いわゆる"思春期"の時期だ。女子では小学校高学年ころから,男子ではやや遅れて中学生になるころから,再び身長や体重の急激な伸びが見られ始める。そして,実はここでも先程の「"成長期"は生命にとって危険な時期」であるという大原則が適応されるのだ。(実際,自動車の任意保険の保険料に関しては26歳を境に安くなる。これは統計上青年の交通事故が,それ以上の年齢の人間に比べて明らかに多いという証拠であろう。)ここには二つの意味がある。ひとつは,前述の通り,成長期にはさまざまな病気に冒されやすく事故に遭いやすい,ということである。しかし,ここには人間としてもうひとつ重要な意味がある。

 我々は生まれてくると同時に,その目に見える外性器の形態から男であり女であるということが分かる。これを「第一次性徴」という。ところが,子供のころは外性器の形以外男女の間にはほとんど差はない。男の子でもちょっとかわいい服装をさせれば女の子に見えるし,女の子でも髪の毛を短く切れば男の子に見える。ところが"思春期"になるとそうはいかなくなる。身長・体重が増加すると同時に,男子は声変わりし体毛が発生し,それまで形だけの存在であった精巣は精子を作り始め,夢精やマスターベーションの形で精通を見るようになる。そして,異性に対する興味関心が急激に昂まり,その性欲は自分自身でも制御不能となることさえある。女子の場合も,乳房や腰部の発達・性毛の発生など体型の変化とともに,卵巣の成長によって初潮を迎えるようになる。そして,男子に比べれば穏やかな形ではあるが,異性への関心が増し恋愛への憧れを抱くようになってくる。

 この,ただ外性器(内性器)の形によって知られる男女差だけでなく,それが実際に機能するようになり,どこから見ても男であり女であるようになった状態を「第二次性徴」と呼ぶ。ところが,やはりこの「第二次成長」「第二次性徴」の時期は,人間にとって危機の時期となるのである。18世紀のフランスの思想家ジャン=ジャック=ルソーは,その著書『エミール』の中でその危機のときを"第二の誕生"という言葉で呼び,その特徴を次のように述べている。

 「私たちは,いわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために,二回目は生きるために。はじめは人間に生まれ,次は男性か女性に生まれる。」

 「…この危機の時代は,かなり短いとはいえ,長く将来に影響を及ぼす。暴風雨に先立って早くから海が荒れ騒ぐように,この危険な変化は,現れはじめた情念のつぶやきによって予告される。」

 「目は,この魂の器官は,これまでに何も語らなかったが,ある言語と表情をもつことになる。燃えはじめた情熱が目に生気をあたえ,いきいきとしたそのまなざしにはまだ清らかな純真さが感じられるが,そこにはもう昔のようにぼんやりしたところがない。目が口以上にものを言うことをかれはもう知っているのだ。」

 「かれは目をふせたり,顔を赤らめたりすることができるようになる。何を感じているのかまだ分からないのに,それに感じやすくなる。理由もないのに落ち着かない気持ちになる。」

(中略)

 「これが私のいう第二の誕生である。ここで人間は本当に人生に生まれてきて,人間的ななにものも彼にとって無縁のものでなくなる。 」

 この思春期の若者の特徴は,自分で自分のことを発展途上であると認識し,成長のために努力をしようとするところにある。その努力する姿こそが,"若さのエネルギー"に満ちた姿ということができるだろう。そこには,「ここに,発展途上にある"自分"というものが存在することは分かっているけれども,その"自分"がどんなものなのか,その"自分"がどんなものになるのかは,まだ自分でも分からない」という悩める青年の姿がある。

 しかし,赤ん坊や小学校低学年までの児童には,それはまだない。彼らは何も考えることなく,毎日を楽しく過ごしているだけなのである。

 ところが,人はいつのころからか,ここに他人とは違う,唯一無比の"自分"というものが存在していることを知る。これを"自我"(エゴ,ego)と呼ぼう。ところが,その"自我"は,いまだ成長の途上にあり,自分自身でさえ,自分がこれからどういう方向へ進んでゆくのか見当もつかない。一体自分はどんなヤツなのだろう?自分は将来何になるのだろう。それを考えるととても不安になる。だからこそ,腹も立ち悩みもする。"自我"の存在には気がついたけれど,まだ"自分は一体何者なのだろう""自分は将来どうなるのだろう""自分はこれからどういう人生を歩んでゆけばいいのだろう"ということは分からない。そういうことがすべて分かった状態を"アイデンティティ(identity)を確立した状態というが,青年期にある人間には,それがまだ分からない。だからこそ,若者は悩み苦しむのだ。

 この思春期("第二の誕生")の時期において,人はここに他人とは違う唯一無比の"自分"("自我"=ego)というものが存在していることを知る。ところが,自らの肉体的・性的な成長に精神的な成長がついてゆけず,「自らが,自らの肉体や精神をもてあます」ようになり,「自分でも自分が分からない」アイデンティティの危機の時代を迎える。このとき人間は,自分自身で自分自身のコントロールが困難となり,孤独と劣等感の中で苦悩する。ルソーは,これを「暴風雨に先立って早くから海が荒れ騒ぐよう」だといい,また,ドイツの文豪ゲーテ(1749-1832)は,これを「疾風怒涛(Strum und Drang) の時代」と呼んだ。

 「FAIRY TALE」発表当時の倉木は19歳。彼女が文字通り「my last teenage wish」と呼ぶように,このとき倉木は「青年前期」「思春期」を終えようとしていた。まさに今彼女はこの「疾風怒濤」の時代を駆け抜け,そして「おとな」になろうとしている。しかし,彼女が言うように「夢を捨てるのが大人ならば なりたくはない」…しかし,どう抗ってもそのときは確実にやってくる。そこで,倉木はやがて来るその日のために自分を確認しなおすため,自分をはぐくんだ子宮とも言える「おとぎ話」の世界を訪れるのだ。「最後の願い」として。

 悩みのなかった,幸せだった「こども時代」を終え,「青年期」に入った若者はそれまで経験したことがないさまざまな試練に出会う。しかし,あくまでもピュアな「青年」はそこに「おとな」のようなゴマカシは使いたくない。しかし,現実は厳しく,自分もいつか大人にならなければならない…夢は捨てたくないが…。倉木はそんな悩める若者に過激にアジテーションを行うのだ。「Start fairy tale!」と。

 "若者"とは"青年"とは"青年期"とは,一体なんだろう?それは,"発展途上にある時期"であると言った。そして,実はその意味では,原始時代には"青年期"は存在しなかったのである。つまり,前近代の社会においては,"こども"はある一定の年齢に達し,体力的に親と同等の仕事をこなすことができるようになると,そのときから突然"おとな"とみなされた。

 奇妙に聞こえるかもしれないが,実は原始時代には"青年期はなかった"のである。もちろん,北京原人もクロマニョン人も,18歳の娘もいれば25歳の男だっていた。しかし,彼らは"若者"ではなかったのである。逆説めいて聞こえるが,決して無理な議論ではない。

 前近代社会においては,社会の構成員になるに当たって,学習・習得しなければならない知識・技術の総量は現在とは比べ物にならないほど少なかった。そのため,"こども"は単に「小さな"おとな"」であり,ある日突然"おとな"になることが可能であったのである。そして,その日はひとつのセレモニーをもって迎えられた。日本における元服の儀式がそれに当たるし,最近は遊園地などでも行われるようになったバンジー・ジャンプも,もともとは未開民族の"こども"が一気に"おとな"になるときの儀式であった。(その他にも,歯を抜いたり,体に入れ墨を施したりする場合など,多くの場合"こども"にある一定の苦痛を与え,それに耐えたときから社会がその"こども"を"おとな"として受け入れることが一般的である。)そして,このような通過儀礼の儀式のことを「成年式」("はじまり"と言う意味で,イニシエイション initiation)という。

 ところが,複雑怪奇な現代社会においては,"こども"は体が大きくなっただけでは,一人前の"おとな"とみなされるわけにはいかなくなってきた。"おとな"になるためには,非常に多くの,知識・技術を習得しなければならなくなったのである。

 つまり,"青年"とは社会の発展とともに,新たに生まれてきた概念なのである。そして,それは現代になるにしたがって加速度的に長期化してきた。つい30年くらい前までは,最終学歴が中学卒業でも,十分,社会人としてやってゆけたのに,現在は,高等学校への進学率が90パーセントを大きく越え,さらに大学や短大などへ進む者も,30-40パーセントにのぼる。このことは,社会がどんどん複雑化し,その社会が,もはや中学校卒業程度の知識・技術力では,人間を,ますます一人前の"おとな"として評価できなくなっていることを示している。この傾向は,これからさらに強まっていくだろうと思われる。つまり,現状では,中・高生(おうおうにして大学生も)は,とても"おとな"とは呼べないのである。

 ところが,彼らはすでに第二次性徴の現れる時期を終え,肉体的にはもはや"こども"とは言えない。20歳過ぎれば,学生であっても法律的には立派な"おとな"である。ところが,彼らは,いまだ社会が彼らがさまざまな勉強を修めて「"おとな"になるのを待ってくれている(猶予してくれている)時期」にいるのである。これを,もともと経済学用語で"(借金の返済)猶予期間"という意味の言葉を使って「モラトリアム」という。そして,彼ら青年は「もう"こども"ではないがまだ"おとな"ではない」という中間的(マージナル)な地位に置かれていることになることから,「マージナル・マン」(周辺人・境界人)とも呼ばれる。これは,もともと社会学用語で,ある社会において,そこに居住しているものの,完全にはその構成員になれないために,さまざまな差別を受けるなど,たとえば,ヨーロッパのキリスト教社会におけるユダヤ人とか,日本の在日韓国・朝鮮人のように,複雑な立場にいる人々のことを指す言葉であった。つまり,青年・若者とは「モラトリアム」の時期にいる「マージナル・マン」なのである。

 倉木は,今その「マージナル・マン」の時期を終えようとする自分を見つめなおし,新たな出発を宣言する。「FAIRY TALE」にはそこに至る彼女の苦悩がリアルに描き出されている。これほどの正直な鬼気迫るアルバムを私は他に知らない。しいて言えば,ジョン=レノンの「ジョンの魂」か。19歳の倉木はここで,ジョン=レノンにも匹敵する人類の詩人となった。

 この現代の社会は,倉木自身が「冷たい海」で歌ったように,こども・若者たちにとっては,戦場とも言える厳しい世界である。そして,社会自体が「こども・若者を守る」というフリをしながら実は,その守るべきものに大きなダメージを与え続けているのだ。皆が苦しんでいる。ここからどうやって抜け出せばいいのか?一つの方法は早く「おとな」になってしまうことだ。しかし,そのためには「夢を捨て」なければいけない。ならどうすればいい。こうして現代の若者たちはどうしようもない袋小路に迷い込んでしまうことになる。しかし,そこに「FAIRY TALE」で倉木が灯火を与えてくれた。彼女ははっきりと「思い出の向こうに未来がある」と彷徨える若者たちに啓示を与え,自分の大切にしてきた過去の再確認こそ未来へ飛び立つ鍵であると導くのだ。


 長々と語ってしまったが,再びアルバムの話に戻ろう。

 このアルバムの曲目リストを見て気がつくことがある。それは,シングルとして発売された曲が4曲しかないということである。「delicious way」には5曲,「Perfect Crime」には8曲もあったシングル曲が「FAIRY TALE」にはたった4曲しか再録されていない。そのために,このアルバムは「ヒット曲の寄せ集め」ではない,アルバムとしての質を問うことができる「芸術作品」となっている。

 構成は非常によく考えられている。

 まず,「Fairy tale〜my last teenage wish〜」 によって,アルバム全体のテーマ

 「こどもからおとなへ至るこの不安な時期,私たちはどう生きていけばいいのか。こんな苦しい世の中だからこそ,もう一度自分の原点に立ち戻って,自分自身を再確認してこよう。それが,明日への一歩につながるのだ」

 「さあ,自分をはぐくんだおとぎ話の世界へ出かけよう!」

が高らかに宣言される。

 主人公たちはカボチャの馬車で「おとぎ話の世界」へ出発する。まるでシンデレラだ。しかし,彼らが向かうのは「ネバーランド」すなわちピーター=パンが暮らす,子どもが決しておとなにならない世界である。(ちなみに,これは倉木が敬愛する歌手マイケル=ジャクソンがその広大な邸宅内に持つ私設遊園地の名前でもある。また,曲の冒頭でぼそぼそとつぶやかれる英語の声はマイケル=ジャクソンの「スリラー」を思い起こさせる。)続いて毒リンゴのテーマが語られアルバムジャケットにも白雪姫が登場する。これらのおなじみのおとぎ話の主人公たちを従えて倉木が語る世界は,

 「夢を捨てるのが大人ならば なりたくない」

永遠の子供の世界であり,しかし,それは決してノスタルジーに浸るだけのネガティブな過去ではなく

 「エメラルドの時空を越えて探す 過去の未来」

と,未来へ向かう過去であった。そして,それらの

 「思い出の向こうには そう新しいfuture land(未来の国)」

があるのだ。しかし,倉木にはちゃんと現実が見えている。

 「時が経つほどに 現実を知っても 儚い夢をいだいていたい」

そう語りながらも,倉木はその現実に埋没し,自らを否定しながら現実に迎合しようとはしない。

 「Only dreamer...will see the dream.」(夢見るものだけが 本当の夢を見る)

と,大人になるために過去の自分を否定する必要がないことを宣言する。

ジョン=レノンは名曲「イマジン」の中でこう歌う。

「You may say I'm a dreamer, but I'm not the only one.
I hope someday you'll join us. And the world will be as one.」

(僕が夢を見てるって?でも,それは僕だけのことじゃない。
いつの日かみんなが同じ夢を見るようになれば きっと世界は一つになれるから。」

こうして,倉木はかつてジョン=レノンが世界に向けて発した平和のメッセージを,若者たちに対する連帯と成長のメッセージへと変え,きわめて明確に示してくれるのだ。

 そして,このメッセージは形を変えて「Trip in the dream」「Not that kind a girl」「不思議の国」と続き,最後に「fantasy」でもってエピローグを迎える。

 2曲目はシングルヒット曲「Feel fine!」 である。このようなトータル・アルバムにシングルヒット曲を挿入すると雰囲気を壊してしまうことがよくあるが,このアルバムでは冒頭の3曲続いて同じ作曲家(徳永暁人)の曲が歌われるため,余り違和感を感じることなくその危険性が大いに軽減され,無理なく指定位置に収まった。

 「Ride on time」 は直接「おとぎ話」への言及はないものの,「現実を乗り越え,未来に向かい旅立て」と,きちんとアルバムのテーマに沿った作品となっている。ただ,ここでの主人公は過去を振り返ることなくしゃにむに未来へ進もうとする。構成は複雑。

 「Oh baby Ride on time...」
 「君に会うまでの…」

の2つのサビが印象的な佳曲。山下達郎に同名の名曲があるが,何か影響を受けているのだろうか?

 ラップ部分の歌詞は,

Take a ride to the big wild street.
Let's get it out wild. Let's get it out wild.
Let's get it on.
This game…make me hot like crazy.
Surrounded by other people.
Move your body with me.
Come here! Jump in the air! Winner!
To the side the front! In the air!

ファンクラブ会報 YOU&MAI 2003年9月より

 「key to my heart」 はファンの間で非常に人気の高い曲。沖縄民謡のようなゆったりとエキゾチックなムードで始まるこの曲は途中からテンポアップし,スカ?というのか,裏打ちの激しいリズムの海の中を倉木は自由自在に泳ぎまわる。シングルカットすれば大ヒット間違いないと思われるが,このような名曲が行儀よく収まるべきところに収まっていることが,このアルバムの価値を高めている。

 「ねぇ 君と行くよ 明日への果てしない旅」

と,ここでも「未来への旅立ち」が高らかに歌われる。

 歌詞は大半が英語詞。"key to my heart"という表現はさまざまなところでつかわれるので,倉木にもおなじみのフレーズであったのだろう。

 同じタイトルを持つ楽曲は結構存在し(CRAIG DAVIDThe Kelly FamilyThe Emotions),他の分野,たとえば,映画スヌーピーのキャラクターなどにもこの名が使われている。

"I like you just the way you are" という表現には珍しくビリー=ジョエルの影響が見える。

 「Winter Bells」 はこのアルバムの中で唯一居心地のよくない曲。チャートの1位を記録したヒット曲でもあり,底抜けに楽しいムードを持つために,うら悲しく謎めいたこのアルバムの中では浮き加減。しかし,ジャケット(歌詞カード)における幻想的なムードが完全に雰囲気が壊れることを救っている。

 「Loving You…」 は2ndツアーとなった「Loving You…ツアー」のテーマソングとして使われ,当時未発表だったためにCD化が待たれていた人気曲。関係がギクシャクしてきた恋人たちが,もう一度昔に戻りたいと願う気持ちが,女の子の心の変化を通して切なく歌われている。

 「懐かしい帰り道を 歩く速さ変わらないね」

と歌われるとき,そこには同じく失いそうな愛をつなぎとめようと,彼と

 「同じ速さで歩きたい」

「Love, Day After Tomorrow」の少女の姿がかぶる。そして「自分らしく」という倉木の永遠のテーマが切なくも力強く歌われる。彼を「君」と呼ぶときの倉木には神々しいまでの力を感じる。やはり第3メロディが印象的。

 曲全体を通して感じることは,この曲は実は「Love, Day After Tomorrow」のアンサーソングになっているのではないかということだ。そう考えて歌詞を見ていくと,この両曲の間には多くの共通項があることが分かる。

Love, Day After TomorrowLoving you...
切ない想いと 今 闘ってるI love you 切ないほど Loving you
ただ君と同じ速さで歩きたいから歩く速さ変わらないね
ただ君と同じ速さで歩きたいからI love you from the start 君と歩き始める
曖昧に飾った言葉は要らない言葉はいらないよ Loving you
涙があふれてく Don't ask me why頬濡らす涙の意味を伝えたくて
I need you backI love you from the start
And now my heart is breakingPlease don't break my heart
Stay with meI always stay for you/Stay with me
そして 迷わずに言える不器用な私達だけど「I love you」 今聞こえた?
そして 迷わずに言えるLoving you 想いを伝えたいから
きっと約束した日には笑って今日は君といたいから

つまり,「Loving you...」の曲世界は,「Love, Day After Tomorrow」の「2日後(あさって)」の世界ではないのだろうか?倉木は「Love, Day After Tomorrow」の「あさって」に当たる今日,彼の元へ向かい言えなかった言葉を伝えるのだ。

 そうすると,ここにはもうひとつのノスタルジー,自分の過去へ捧げるオマージュが見えてくる。

 「Can't forget your love」 もシングルヒット曲であるが,もともと幻想的なムードを持つ曲であるためにアルバムの雰囲気を壊すことがない。また,曲のテーマも「時空を越えた愛」であるため,アルバムの指定席にしっくりとマッチする。この曲は非常に人気がある曲であるにもかかわらず,ライブでは歌われずベストアルバムにも収録されなかった。他の理由があればいいのだが,もし英語詞の文法に誤りが一箇所あると思い,気恥ずかしくて歌わないのならその心配はまったくない。シングル解説でも述べているように,誤りではないと読むこともできるからだ。もっと正当な評価を与えてもらいたい名曲である。

 「Trip in the dream」 は,きちんとテーマに沿った作品。魔法を使い空を飛ぶ主人公はあたかもピーター=パンのよう。この曲も非常にパーソナルで,はっきりと自分自身のことを歌っている。歌詞カードには記されていないが,最後の英語コーラスは16,17,18,19歳と倉木の等身大の成長を歌う。

 「Not that kind a girl」 はストレートにアルバムテーマを歌った作品。

 「子供でも大人でもない 今の私を」

と,「マージナル=マン」が宣言される。そしていつものテーマ「自分らしさ」が歌われるのだ。この倉木の「分かり易さ」こそが,彼女をここまでのスーパースター足らしめた原因ではなかろうか。

 「Like a star in the night」 もシングルヒット曲。アルバムテーマとは直接関係はないが,ゆったりしたラブ・バラードだけに雰囲気を壊すことはしない。

 そして「不思議の国」 である。倉木自身がこの曲はいつものように曲を提示されてそれに詞をつけたのではなく,自らが先に詞を書いて大野愛果に曲の提供を求めた旨の発言がある。とすれば,この曲こそ,このアルバムの中で倉木が最も言いたかったことをあらわしているのかもしれない。

 曲のモチーフとなるおとぎ話はやはり「不思議の国のアリス」

 しかし,ここで歌われているのは直接ルイス=キャロルの物語の世界ではない。

 倉木はおそらく2000年の「Reach for the sky」撮影の時に訪れた南部イングランドで,ギルフォード(Guildford)という町へ行っている。この街は「不思議の国のアリス」の作者のルイス=キャロルが死去した町で,彼の墓もここにある。そして,町中がルイス=キャロルのオマージュにあふれているのだが,街の真ん中を通るミルメッド(Millmead,ミルミード)通りの脇にはアリスの横をすり抜けて,今にも穴に飛び込もうとするウサギのブロンズ像の置かれた公園がある。倉木がこの曲のモチーフとしたのはこの公園とそこにある彫刻であろう。

 白ウサギの登場に触発されて主人公が出発するのは不思議の国。そこへは
 「時空の中にある道をたどり,光る道を進んでゆく」
 「過去も未来もつながって 輪廻転生が繰り返される世界」

「Start Fairy tale!」

と,倉木の道案内でおとぎの国へ出発した我々は,ここで自分自身の力で前進してゆくすべを学んだ。そうして,両親も祖父母もずっとずっとその向こうのご先祖様たちもやってきたように,移り行く季節の中で自分の信じた未来へと進んでいくのだ。その向こうにはやがて「Time after time」のメロディが聞こえてくるだろう。そして倉木は最後に過去を突き抜けて未来への旅立ちを高らかに宣言するのだ。

 「Let's go now!」

と!

 そして,こどもたちは大人になってゆく。しかし,この新しい菩薩の先導を得た彼ら彼女たちは,もう決して道を見失うことはなく,明るい未来へ進んでゆけるだろう。

 「Perfect Crime」の最後でも述べたように,実はこの「不思議の国」でこのアルバムの世界は終わる。白ウサギや白雪姫やピーターパンたちに別れを告げた倉木は,我々を連れて「トンネルのこちら側」へ戻ってくる。そして,いわば"アンコール"として,「fantasy」 が登場する。そして,ここで現実に立ち返った主人公は「現実の過去」をファンタジーとして消化し,「また明日会おうね」と明日へと歩みだすのだ。

 「アイドル(本当の意味での)」は往々にしてアイデンティティを確立していない「青年」に巨大な影響力を持つ。時にそれは岡田有希子事件のような悲劇を生むこともあるが,実際我々の行く先を示す灯火となってくれることがある。ここに,このときをもって,倉木は「カリスマ」としてわれらの先頭に立った。

「fantasy」の謎については「倉木麻衣論 補論6「倉木麻衣はオジサマ殺し?」を参照のこと。


 このアルバムに関しては「music freak magazine」2002年9月号に倉木自身の詳細なインタビューがある。


 歌詞における注目点・問題点をまとめて掲示しておく。

1.日本語詞

「Fairy tale」:「トンネルの向こうには あの懐かしいネバーランド」
 本アルバムのリリースの1年3ヶ月前に,宮崎駿監督の傑作アニメーション映画「千と千尋の神隠し」が封切られている。この映画はアカデミー賞まで受賞する大ヒット作品となったが,映画の発端,千尋一家は「トンネルを通って不思議の世界」へトリップする。やはり倉木にはこの映画によって「トンネルの向こうに別世界がある」というイメージが植えつけられていたのではないか。

2.英語詞

「Fairy tale」:"I am taking with you."
 「君を連れてゆく」の意味なら"with"は必要ない。

ただ,"take"には自動詞として「行く」の意味があるので,絶対間違っているとはいえない。あるいは

 "I am taking ( a trip ) with you."

と( )内が省略されているとも考えられる。