ちょっと奇をてらったタイトルになってしまった。オジサマ殺しって?倉木がその類まれな美貌で世のオジサマたちをメロメロにしたということか?・・・いや,私も含めてそれは決して間違ってはいないのだが,今日はあいにくその話ではない。
実は,私のサイト宛にメッセージを送るフォームを作ってあるが,そこからメッセージを下さる方々の半数以上が40代の男性である。もちろん私の音楽遍歴がそういった方々のそれと年代的に一致することもあり,同世代の方が私の書く文章に興味関心を持ってくださるのだとは思うが,もちろんそれだけではない。要するに,なぜ「倉木麻衣」はこれほどにまでオジサマ方を魅了するのだろうかという問題だ。
最初に書いたように,もちろんその容姿は関係がある。しかし,それは別にオジサマに限ったことではない。中高生とて同じことであろう。それでは,なぜ我々40代は(もちろん30代以上60代~70代の方を含めて)倉木麻衣というアーティストにこんなにも魅せられるのか?
答えは当然彼女の音楽の中にある。ファーストアルバム「delicious way」はそうでもなかった。このアルバム時期の曲は,やはり「等身大」の倉木を前面に押し出し,中高生・大学生あたりをその主たるターゲットにしていたような感じがある。たとえば「Love, Day After Tomorrow」には,
「メールで送った文字じゃ 返事は来ないね」
という一節がある。今から4年ほど前倉木がデビューした当時,すでに携帯電話は女子高生の必須アイテムとなっていたが,オジサマ方が愛を語るツールになっていたかといえば疑問符がつく。また,R&Bというジャンルの音楽もまだまだ若者向けの音楽ということができたし,倉木のルックス自体まだ非常に幼かったので,倉木に夢中になるにはオジサマたちは胸の中の背徳感と闘わねばならなかった。
しかし,第2作「Perfect Crime」では様相が変わってきた。ジャケット写真の倉木は格段に大人っぽくなり,オジサマたちの背徳感を消し去った。音楽においては「delicious way」から「Perfect Crime」への音楽的変化,非常に優れた音楽評論集である「歌姫バカ一代」によれば,「R&BからAORへの変化」は,その音楽のターゲットの年齢層の幅を飛躍的に広げることとなった。
さらに詞の分野でも同様の変化が見られる。たとえば「Brand New Day」では,主人公はレトロなアイテムである「列車」に乗り,「Love, Day」の携帯を捨て,
「にじんだインク バレるかな たまには涙していいよね」
と,これもまたレトロな万年筆で愛を綴るのである。
さらに,名曲「Stand Up」では昭和40年のローリング・ストーンズのヒット曲「Satisfaction」が歌われるが,ここに登場する「DJ」とは冒頭のラジオのチューニング音からも分かるように最近流行の「クラブのDJ」ではなく,「AM深夜放送のDJ」である。40代前後の人間なら「オールナイト・ニッポン」「セイ・ヤング」「パック・イン・ミュージック」などのテーマソングが聞こえてくるであろう。さらに「Reach for the sky」は昭和41年頃のビートルズサウンドを狙ったものであり,これらの波状攻撃はレトロな洋楽ファンに大きなシンパシーを与えた。
上記の「歌姫バカ一代」で優れた音楽評論を展開するバツ丸氏はこれらの倉木の音楽に対して,非常に面白い指摘をされている。いわく,
と言う。すなわち,かつて類似を指摘された宇多田と倉木は,実は宇多田が「洋楽の王道」を歩み,倉木が「日本の歌謡曲」+「アイドルポップス」を基礎としていると言う点でまったく異なった音楽性を持つと指摘されている。的を得た論議であると敬服するが,そう思って考えるといろいろなことが「腑に落ちる」。なぜ,私のところに40代の男性から頻繁にメールが届くか。TAK MATSUMOTOは倉木に「40代オジサマたちの永遠のアイドル」山口百恵の「イミテイション・ゴールド」を歌わせたが,なぜあの曲がNo.1ヒットとなったのか。その他もろもろ謎が解けてゆく。しかし,私はその先にもっと巨大な影を見る。その地に足がついた歌唱,ファルセットを多用しながら時には明るく,時にはもの悲しく,時にささやき,時に熱唱するその歌声・・・。女王美空ひばりである。倉木とひばり?荒唐無稽の比較かもしれない。しかし,バツ丸氏が指摘されるように,その歌唱法や旋律の中に,私は美空ひばりにまで続く,日本の歌謡曲の大きな流れを感じるのだ。かつて日本の歌謡アイドルに夢中になった経験を持つオジサマたちは,もうすでに倉木に夢中だ。
さらに「FAIRY TALE」がとどめをさす。
このアルバムは「おとぎ話」がテーマとなっているので,中高年に対しても中高生に対しても等しくノスタルジーを供給してくれる。しかし,最後の最後「fantasy」でオジサマたちはあっけなく陥落する。
この曲で倉木はこう歌う。
「両手でバランスとりながら 歩いたあぜ道」
「夕日を背中に受けながら 風に波立つ草原を 走り抜けたあの頃の」
しかし,ここで歌われるのは倉木が実際に経験した世界ではない。それは,倉木自身によって,
「心通し見ていた風景」
であると宣言される。
大体,倉木は関東のある大都市の出身であると聞く。それならば余計に倉木が少女時代を過ごした1980年代後半から90年代初めにかけて,彼女が「バランスをとりながら あぜ道を歩く」ようなことはまずありえまい。だから,これは実際に経験した情景ではなく,倉木の「心象風景」である。ならば彼女はその姿をどこで知ったのか?
実は「music freak magazine」2002年9月号に,アルバム「FAIRY TALE」に関する倉木自身の詳細なインタビューがあり,倉木自身がこの「fantasy」についても自らの口で語っている。
そこでは実は彼女は
「夢の空間で描かれるFAIRY TALEをキーワードにした時、自分にとってのfantasyは何だろう?って考えたのが始まり。自然と昔にさかのぼってみて「そう言えばあぜ道通ったな」って。でも、あぜ道を知らない人も多いかもしれない(笑)。レコーディングの時、アシスタント・エンジニアの人に「あぜ道って何?」って聞かれたんです(笑)。小学校の時って裏道とか通って行きませんでした? 道じゃない道を通って、オットットって歩いて冒険したり探検したり。詞を書いていたのが夕方から夜にかけての、ちょうどいい感じの時間だったこともあって、何も考えずにスラスラっと一気に書けました。」
と語ってはいるが,ここでの「あぜ道」は,「裏道」と混同されていて概念がはっきりしない。しかし,「どこまでも続く田んぼのあぜ道」というイメージではないようだ。
今書いたように,おそらく倉木はそういった風景を直接は見聞きしていない。それならば写真か?絵画か?・・・いやそうではあるまい,それではあまりにも具体的風景が乏しい。私は考える。倉木はその風景をおそらく「映画」の中で見たと。
倉木の映画好きは有名である。無理な議論ではなかろう。しかし,倉木の口から洋画の名前はよく聞くが,邦画について聞くことはあまりない。それならそれは何か。
昭和30年代頃の日本の農村の原風景を描写した映画で,倉木がおそらく見ているであろうもの・・・。
ひとつだけあった。「となりのトトロ」である。
この宮崎駿監督のアニメーションを見たことがない子どもはおそらく日本にはいないだろう。そして,そこに描かれる風景はまさに「fantasy」で歌われるあぜ道の世界そのものである。そして,さらにそこにはトトロや猫バス等の「おとぎ話(fairy tale)」のキャラクターたちが縦横無尽に駆け巡るのである。つまり,「fantasy」とは倉木が「トトロ」通して見た日本の原風景であったのではないか。
それでは「風に波立つ草原」は?しかも波立つのだから,子どものひざくらいまではあろうかという草原を「走り抜ける」ことができるものか?それはどこにあるのか?
・・・あった。
「トトロ」と同じく宮崎駿監督の作品に「風の谷のナウシカ」という傑作アニメーションがある。その映画の最後のあたりで,傷ついた主人公の少女は「怪虫」オウムによって癒される。そして彼女は伝説の青き衣を着て風になびく金色の草原を歩くのだ!
倉木は傑作アルバム「FAIRY TALE」の最後の最後に,自らが愛した最高のファンタジー作品の世界を置いたのではないか?そしてそれを通して,「冷たい海」で嘆かれたような,子どもにとって暮らしにくい世界が現れる前の,子どもが何も考えることなく子どもでいられた昭和30年代前後の日本の原風景を描いたのではないか?私はそんな気がする。そして,その子どもたちが現在40歳を超えたのだ・・・。
「FAIRY TALE」にはそれ以外にも宮崎アニメの影響が見られることはアルバム解説でも触れているが,「Fairy tale~my last teenage wish~」に 「トンネルの向こうには あの懐しいネバーランド」 と「トンネルの向こうに別の世界がある」という「千と千尋の神隠し」に影響を受けたと思われる一節がある。
つまり我々40代男性は,倉木麻衣を「かわいいポップアイドル」として愛しているのではなく,自分たちの原風景の中に必ず存在し,自分たちを愛し,はぐくんでくれた女性・・・すなわち「母親」の姿をダブらせて見ているのではないか。
倉木がこよなく愛するビートルズの曲「レット・イット・ビー」の中で,作者ポール=マッカートニーが14歳のとき亡くなった母メアリー(Mother Mary)は,同じ名前を持つ聖母マリア(Mother Mary)の姿で「息子」ポールの前に降臨し,「そのままでいいよ なるがままにしなさい」と癒しの言葉を伝える。この倉木の世界にはそこにもつながる母の愛が見える。「Fairy tale」~「fantasy」を通じて,我々40代はそこに何よりも慕わしい「唯一の女性」=「母親」の癒しを見るのだ。
そう考えると,我々40オーバーのいいオジサンたちが,この一人の少女にこれだけも魅入られる理由が分かる。
我々は倉木の息子だったのだ。