当然のことながら,このサイトでは,何度も何度も様々な視点から倉木麻衣の魅力に付いて語ってきた。そこで,ある程度は倉木の魅力について語りつくしたような気持ちになっていたが,最近ふと感じたことがある。
それは倉木麻衣の「本籍」である。
もちろん,ここで彼女のプライバシーを暴こうなどという気持ちは毛頭もない。ここでいう「本籍」とは,“倉木麻衣とは一体どのジャンルに分類されるアーティストか”ということだ。
すなわち,世の中にはいろいろなジャンルの歌手がいる。
「ロック歌手」「演歌歌手」「オペラ歌手」「R&Bシンガー」「シャンソン歌手」「カントリー・シンガー」「アイドル歌手」などだ。
それでは倉木はどこに分類されるのだろうか?
倉木の出発は「R&Bシンガー」であった。一般的には先行する宇多田ヒカルの圧倒的な成功を受けて,制作サイド主導で“作られたR&Bシンガー”としてデビュー“させられた”…と捉えられることがあるが,実はそれは正しくない。
倉木の公式サイトの「プロフィール」には,倉木のデビューのきっかけとして次のような話が書かれている。
Michael Jackson の映画を観て、歌を身体とリズムにのせて表現する素晴らしさに感動し,後に Whitney HoustonのLive Videoを見て,本格的にシンガーを目指すようになる。 そして、中学2年生の頃から自分でデモテープ作りを始める。 |
「スリラー」以降のMichael Jacksonが完全な「R&Bシンガー」とは言い難いが,ここにはっきりと彼女の「本籍」が「R&Bシンガー」であることが書かれている。
ところで,多くの音楽ファンは「R&Bシンガー」というとどういったものを思い浮かべるであろうか?
それはやはり,プロフィールに挙げられた例を見るまでもなく「黒人シンガー」のイメージであろう。単なる「ブルース」ではなく,「R&Bシンガー」というときには,ある程度泥臭さが抜け都会的に洗練された音楽を想起するが,それでもやはりブラック・ミュージックの伝統の上に立つ。「Story」の大ヒットを飛ばしたAIなどを聴けば(見れば)よくわかるが,R&B(リズム・アンド・ブルース)というのはやはり“黒っぽい”。そしてそれを歌う姿は黒人シンガーを意識していることがありありと見て取れる。初期の宇多田ヒカルにしてもそうであった。
一方倉木はどうであろうか?
「Love, Day After Tomorrow」「What are you waiting for」「think about」「Not that kind a girl」など,Yoko Bkackstoneの曲を中心に“R&B”に分類される楽曲は数多いが,実は倉木のR&Bはあまり“黒っぽく”ない。これはひとつにはこれらのR&B楽曲が主に倉木が10代の頃に歌われたため,声の“かわいらしさ”が,黒人シンガー特有の(日本人ならさしずめ和田アキ子のような)迫力感を持たないことによる。その証拠に,20代になって歌われたR&B「愛をもっと」などは,なかなか堂々としたブラックなパワーを感じることが出来る。しかし,この頃になると倉木は余りR&Bを歌わないようになった。
それでは,倉木はR&Bという“本籍地”を捨てたのであろうか?
ここで,逆のアプローチを行ってみたい。
倉木に,名曲「Stand Up」がある。いわゆる“ストレートなロックナンバー”であり,そこには,たとえば若い頃のエルヴィスのような“ロカビリー”の味わいがある。これはカントリーミュージックにルーツを持つ白人の音楽である。しかし,ここでもまた倉木はぜんぜん“白人っぽく”ない。
倉木は,何を歌っても「倉木麻衣」なのだ。
これは実は,1980年代頃の「アイドル歌手」の姿に近い。“デビュー当初の”という但し書きがつくかもしれないが,「横須賀ストーリー」以前の山口百恵は何を歌っても「山口百恵」であったし,ニューミュージック路線が始まる以前の松田聖子にも同様なことが言えよう。
また,シンガーソングライターにもこのタイプが多い。全盛期のよしだたくろうの曲など,すべて「よしだたくろう」であり,それ以上でも以下でもない。
さらにいえば,「演歌歌手」にもこのタイプが多い。
しかし,どう考えても倉木はいわゆる「カワイコちゃんアイドル歌手」ではない。また,作曲をしないという意味において「シンガーソングライター」でもない。もちろん着物を着て(見てみたいが!)ご当地ソングを歌ってくれそうにもない。
では,倉木麻衣とは何なのだ?
そこでひとつのイメージが浮かんでくる。
倉木麻衣は,非常に器用な歌手である。どんな曲を歌っても「倉木麻衣の歌」にしてしまう。
R&Bを歌っても「倉木麻衣」,ロカビリーを歌っても「倉木麻衣」,ポップスを歌っても「倉木麻衣」・・・。
それでは,その本当の本籍はどこにあるのか?
それは「日本」である。
何を当たり前のことを・・・と言われるかもしれない。しかし,その意味をもう少し詳細に考えてみるならば,読者の皆さんも面白いことに気づくのではないだろうか?
かつて私は,倉木の魅力は,その「中途半端」なところにあると書いた。しかし,ここではあえてその逆を語ってみたい。
倉木麻衣は何を歌っても「倉木麻衣」である。それは,与えられた楽曲を“誰かになりきって歌う”のではなく,常にあくまで“倉木麻衣として”歌うということだ。そして,その根底にあるのは「和」のテイストではないだろうか?
すなわち,倉木はどんな場面でも“日本風のR&B”“日本風のロック”“日本風のポップス”を歌う。これは一歩間違えると,その優れた容姿とも相まって「アイドル歌手」に分類されてしまうのだが,倉木の場合,自分で詞を書くことによってアーティスティックな意味での“倉木ワールド”を作り上げ,その器用な歌唱力はどんなジャンルの曲でも最上級のものとして提示してくれる。
これはもう,なかなか言葉ではジャンル分け出来ない。あえて言うならば「ドメスティック・アイドル」とでも言えばいいだろうか?
そのルーツはアメリカなど外国にあろうとも,それを日本のものとして歌いこなし,しかも美しい。あたかもデトロイトの自動車産業をTOYOTAが脅かす姿にも似る。
ここに本籍を置く限り,倉木は決して根無し草になることなく,これからもますます成長しながら,我々に曲上の音楽を与え続けてくれることだろう。