ここまで,倉木に寄せられてきたさまざまな非難中傷を論駁する形で,彼女の音楽の特徴について述べてきた。ここからは,さらに発展的に彼女の主に詩的世界を通して,倉木麻衣が現代社会に持つ役割を論じてみたい。
倉木はそのアイドル然とした風貌から多くの熱狂的男性ファンを持つが,実は女性ファンも数多い。当然のことながら,彼女たちは倉木の性的魅力ではなく,音楽あるいは詩的世界に魅せられていることは言うまでもない。もちろん男性をも惹きつける倉木の詩的世界の魅力とはどこにあるのだろうか?彼女の曲については「全曲解説」の項で,「解説」なり「感想」なりを述べたいと思うので,ここではかいつまんで特徴のみを論ずることにする。
倉木の歌詞は,読み方によって時に浅く,時に深い。前述したように,彼女の(特に初期の)歌い方は歌詞を前面に押し出すことをしないがために,カードを読まなければ内容が理解しがたいことがある。しかしこれは欠点のように見えながら,その実,大きなアドバンテージを獲得しているのではないか。
日本のポップ・アーティストにとって古くからの大問題がある。それは「日本語をどうやって洋楽のリズムに乗せるのか」という問である。
かつて,1960年代のロカビリーブームのとき,多くの日本人アーティストが洋楽のカバーを行ったが,往々にして見られたのは,日本人による日本語の歌詞をそのまま洋楽のリズムとメロディーに乗せたというもので,あまり成功したとは言いがたかった。ロック系の速いパッセージには母音が極端に多い日本語は乗せにくく,どうしてももったりとした印象を与えてしまい,洗練された音楽にはなりにくかった。この傾向はしかし長く続いたが,やがて新たな方向性が見えてきた。
宇崎竜童率いるダウンタウン・ブギウギ・バンドは1970年代の「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の大ヒットで知られるが,宇崎は「スモーキン・ブギ」や「カッコマン・ブギ」で,日本語を早口でまくし立てる歌唱法で,もったりした日本語を速いブギのリズムに乗せることに成功した。また,80年代桑田佳祐は,日本語をぐちゃぐちゃにつぶして英語化することにより見事に日本語のロックを完成させた。そして,実は倉木もこの系譜上にあると考える。倉木は日本語の歌詞をささやくように歌い,あるいはファルセットを多用し,また,英語詞を多く挿入することによって,歌詞の「意味」と「音韻」を切り離し,CDでは「音韻」を味わい,内容は「歌詞カード」で確認するという鑑賞の「二元論」を展開した。これは日本人にとっての「洋楽」の鑑賞法である。メロディと英語の語呂を聴いてその曲を愛好し,次に歌詞カードを見て一緒に歌い,そして訳詞を見て歌詞の意味を確認し,改めて感動する…という「段階的鑑賞法」である。(もちろん,中には訳詞を見て想像していた内容と実際の歌詞の意味が大きく違い面食らうこともある。私の経験では,中学時代,アルバート=ハモンドの「ダウン・バイ・ザ・リバー」という曲を知って,その軽快なリズムを好みよく口ずさんでいたが,やがてその内容が廃液を垂れ流す工場に対する激しいプロテストソングであることを知って愕然としたことがある。)その意味で,「第一段階」においては音楽上の倉木の「歌詞」は浅い。しかし,それはあくまでも彼女の音楽をBGM的に簡易鑑賞したときのことであり,ヘッドフォン等を使用し,あるいは歌詞カードを読みながら彼女の音楽をじっくりと鑑賞すれば,すなわち,ただ「音楽」の一部としての歌詞ではなく,「文学」としての「歌の詩」を正面から鑑賞するならば,それは非常に重い。洋楽なら前述したように「3段階鑑賞」になるところが,それでもやはり日本語を中心とした歌詞であるので,「2段階鑑賞」で済むということは,日本のアイドルポップスには物足りない。しかし,興味はあるが洋楽はちょっととっつきにくい。しかし「かっこいい音楽が欲しい」という中高生には最適の音楽であるのかもしれない。
デビューシングル「Love, Day After Tomorrow」の歌詞を例にとれば,そこには初期の「歌詞の音韻化」の例が多く聞き取れる。
まず,英語詞が多い。多くの日本人には一聴しただけでその意味を聞き取ることは困難であろう。さらに日本語の音声ルールの無視がある。たとえば,
ただ 君と同じ速さで歩きたいから…
という一節は日本語音声のルールを無視して歌われている。日本語の「ただ」は通常最初の「た」,すなわち太字表記の部分にアクセントが置かれる。しかし,倉木はここでこの「ただ」を後ろの「だ」にアクセントをおいて発音する。もちろん曲がそうだからだが,(このあたりの音声から,彼女の作詞法がまず曲を与えられてそれに詞をつけていく方式がとられているということが想像できる)これにより,この「ただ」は「just,only」の意味を持つ単語ではなく「ta-da」という単なる音声にと変質している。もちろん,倉木が敢えて意識して行った作業ではないにしても,結果的に複雑なR&Bのリズムに日本語を乗せることに成功している。
この日本語の「音韻化」の顕著な例が「delicious way」には多く見られる。たとえば,
傷ついたまま 夢見ることなく 大人になるのはつらい 裸足でかけてく 今
歌詞カードには上記のように通常の日本語の意味の切れ目で区切られて掲載されている。
しかし実際に歌われるのは,
傷ついた まま 夢見る こ と な く 大人に なるのはつらい 裸 足で か け てく い ま
アンダーライン部=強く発音される場所
と,意味のつながりを無視したパッセージに分割されている。また,通常の日本語とはアクセントの位置も違う。倉木のこのような歌詞の音韻化により,彼女の曲は日本語の呪縛を離れて,洋楽のリズムとメロディに乗り生き生きと輝き始める。
それでは,歌詞には意味はないのだろうか?
倉木の歌詞はよく同年代の女性の等身大の姿を描いたものと言われる。それが彼女の人気の秘密でもあるといわれるが,実際にはどのようなところにそれが現れているだろうか。前述したように,彼女の歌詞は「音韻化」と「文学」としての二元論でもって聴くものの心を揺さぶる。音韻化についてはすでに触れたので,次に文学的要素について考えてみる。たとえば,「Secret of my heart」。ここには友だちのように接している男友だちに対して,実は恋心を抱いているという「心の秘密」を歌った佳曲であるが,これなど,まさに「等身大」の女子高校生の姿が透けて見えてくる。しかし,彼女は決して男に媚を売ることはない。20年前の演歌の世界では,女は「私はあなたのものだから,死ぬまでついていくから決して捨てないで」という男尊女卑の世界が当然のように歌われていた。しかし,平成を生きる倉木のアプローチは違う。彼女は男(しばしば女も)のことをあまり「あなた」とは呼ばない。使われる二人称は多くは無性別(ユニセックス)の「君」である。そのため倉木の曲を漫然と聴いていると,登場人物の男女が混乱してくることさえある。男女機会均等の時代に生まれた彼女は,もはや性別を超えて男女の間に新しいパートナーシップの結成を呼びかけている。彼女の詞が自律を強める女性たちの応援歌となったことは想像に難くない。逆に恋しい男性を「あなた」と呼ぶとき(「Stay by my side」 等),倉木は,突然古風な弱い女性になるのである。
第2作「PERFECT CRIME」における倉木の立場は多少中途半端である。ヘヴィなタイトル曲を熱唱しながらも,ヒット曲の「Stand Up」や「always」を収録せねばならず,前作以来の期待を裏切らないためにはR&Bの「What are you waiting for」や「think about」も必要…と,アルバム全体としてはやや散漫とした印象を受ける。しかし,このアルバムの中から乱暴にも一曲挙げて倉木が求める音楽的世界を追求するなら,私は「The ROSE~melody in the sky~」に注目したい。
この曲はわずか2分の小品である。しかし,その2分は永遠に続く2分である。曲の詳細については「曲目解説」の項に譲るが,倉木はこの曲を全編英語詞で歌う。その堂々とした歌唱から,作詞:倉木麻衣になっていても,私は最初彼女が日本語詞を書き,誰か専門家が英訳したのかと思っていた。しかし,詞をじっくり読むとどうもそうではないようだ。この英語詞も,他の曲と同様に非常に初歩的な単語のみを使い,きわめて平易な文法で記述されている。そこには,倉木の英語作詞法のいつもと同様のルールが見られる。間違いなく彼女自身が作詞したものであるが,「歌詞の音韻化」=「楽曲の洋楽化」はここに至って完成した。しかし,それは単なる洋楽の物まねではない。倉木はこの曲をあくまでも日本的スピリットを持って熱唱する。そして,その歌唱に感動した若者(に限定するわけではないが)は,続いて歌詞を読み,「訳詞」にこだわらずとも心打たれるのである。訳知り顔した「おとな」なら,余りにも幼い高校生の英作文と看過してしまうかもしれないが,彼女と等身大のメンタリティを持つ女子中学生や女子高生にとっては「心のバイブル」ともなりうる曲なのである。
倉木はまた,3作目の「FAIRY TALE」において大きな成長を遂げる。
このアルバムは20歳を目前にした倉木が,子どもと大人の合間を揺れ動きながらその中途半端な時代の心の揺れをテーマとしたコンセプト・アルバムとなっている。
「夢を捨てるのが大人ならば なりたくはない」
("Fairy tale~my last teenage wish~")
「12時過ぎたら Come back my home Forgive me
平凡な19nineteen にまた戻る
脱ぎ捨てたヒール見つめて繰り返す
子供でも大人でもない 今の私を
あなたは知らない
背伸びをしてる 私がここにいるよ
臆病な心で 夢を見ては ガラスの靴を履く」
("Not that kind a girl")
これらの曲に代表されるように,このアルバムの詩的世界は,大人と子どもとの中間地点である「マージナル・マン」の時期を苦しみながらも乗り切ろうとする青年期のバイブルとなっている。「おとぎ話」(fairy tale)というテーマはまさにうってつけの題材であった。
一聴して気づくことは,このアルバムにおいて「黒っぽい」R&Bがほとんど姿を消したということである。このアルバムでの倉木は「日本人R&B歌手」とか「ポップ・アイドル」とかいう偏狭なジャンルを払いのけ,同世代の「カリスマ」,「時代の代弁者」「アーティスト」へと成長を遂げた。
これも「曲目解説」の項で詳述するが,私はこのアルバムは倉木の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(今後"サージェント"と略)であると思っている。
1962年「ポップ・アイドル」としてデビューしたビートルズは,しかし,その人気に安住することなく常に新しい音楽的実験を,しかも巨大なセールスを失うことなく実行していった。その完成型が1967年のアルバム「サージェント」であった。「60年代のすべてがここにある」といわれたこのコンセプトアルバムは,発表後40年近くたっても「ポップミュージックが到達した最高峰」と呼ばれ,若者向けのサブ=カルチャーに過ぎなかった「ロック・アンド・ロール」は,このアルバムの登場によって,総合芸術としての「ロック・ミュージック」に昇華した。
倉木はまさに,ビートルズが「サージェント」で行ったことを「FAIRY TALE」で実現した。もちろんビートルズとの単純な比較は不可能であるが,かつて「1960年代という時代を後世に伝えるためにタイムカプセルに何か一つだけ入れて埋めるとしたら,「サージェント」1枚入れておけばそれでいい。この1枚でこの10年のすべてが分かる。」といわれたのと同様に,倉木は普遍的テーマである,少女が大人になって行こうとするうつろい易く壊れやすい心の襞を,このアルバムで見事に描ききった。控えめに見ても「アーティスト倉木麻衣」の誕生を告げる1枚である。
4作目の「If I Believe」は評価が難しいアルバムである。ここにはシングルヒット曲が4曲も収録され,その他にもシングル化できそうなキャッチーなメロディを持った曲が多い。難しさとは,シングルヒット曲は,やはりセールスを重視しなければならないので,その詞もどうしても「万人向け」の内容にならざるを得ない。その意味で,多くのシングルヒットを集めたこのアルバムは「アルバム」としては評価しづらい。しかし,純粋に「ベストアルバム」として鑑賞したときには,至福の時間を与えてくれる作品集であることもまた間違いない。
ただ,特に詞の面においては見過ごしてはならないテーマが少なからずある。
第一に,歌詞の「私小説化」とでも呼んだらいいのだろうか,万人向けのヒット曲と並んで極端に自分自身を直接歌い上げた詞が目立つことである。
たとえば「SAME」では,「芸能人」としてのさまざまなスキャンダル等に振り回された自分が,本当はただ歌を通じて自分を表現したいだけなのだ,周りの雑音に惑わされないで,今は本当の自分でいたい…と歌い,このアルバム収録曲「Time after time」のシングルにおけるカップリング曲「natural」では,やはり周りに惑わされることなく自分は本当の自分でいたいという,倉木の現在の心境とも思える内容が歌われる。
またビートルズとの比較をお許しいただければ,1970年ビートルズを解散したジョン=レノンは極度の精神変調に陥り,アメリカ人精神科医アーサー=ヤノフの「プライム・スクリーム療法」を受ける。これは,医師が患者に子ども時代から現在に至るさまざまな過去を質問し続けることによって,深層心理の中から,患者の精神変調の原因となった原因を探り出すという治療法である。患者は自分を苦しめてきた忌まわしい過去の事実を思い出し,「原初的な叫び(プライム・スクリーム)」を上げてのたうち苦しむ。しかし,その叫びがきっかけとなってカタルシス(精神の浄化)が訪れるというものである。
ジョン=レノンはこの治療を受け「ジョンの魂」という鬼気迫るアルバムを発表した。そこには彼の心の闇の中に潜む病巣,すなわち母との別れ,父の裏切り,虚構としてのビートルズとの決別等が激しく歌われ,長年のファンを大いに困惑させた。しかし,このアルバムでカタルシスを終えたジョンの精神は新たな活躍の場所を求め,日本人妻小野洋子と手を携えて,「奇矯」とも思える平和運動に身を投じて行き,やがては「専業主夫」となるのである。
年齢も違う,経験も違う,立場も違う,当然ジョン=レノンと倉木を単純比較することなどできないが,このアルバムおよびこの時期の倉木の詞はある種彼女にとっての「プライム・スクリーム」ではないのだろうか。
今後の彼女の活躍がどのように変化してゆくか非常に興味深いところであるが,もはや露出過多のポップアイドルにならないことだけは予想できよう。
第二にシングルにもなった「風のららら」である。
新しい作曲者が起用されたせいもあるが,この曲は倉木のライブラリーの中でもきわめて特殊な歌詞となった。すなわち,(コーラスを除き)倉木が歌う歌詞から「英語詞」が消えたのである。しかも,その歌詞は「5」と「7」の音が多用され,きわめて日本的な響きを持つ。この曲は,これを書いている2004年2月現在,彼女の「最新シングル」であるので,今後の興味が尽きないところであるが,この「IF I Believe」の時期を境として,倉木が大きく変化しつつあるという印象を受けるのは私だけではないはずだ。思うに,この曲は先に詞があり,その詞に曲がつけられたのではないだろうか。とすれば,大学生活も順調に進み,音楽活動も順調である彼女の立場が,プロダクションやレコード会社に対して相対的に向上し,自分自身を前面に押し出すことが容認され始めたとも考えられる。こうなると彼女の曲はこの後「万人向け」のものから「好き嫌いがはっきり出るもの」へと変化することも考えられる。ファンとしては彼女の変化・成長を見守ってゆきたい。
第三に歌詞における哲学的な深まりがある。それまで「等身大の」という形容詞が多用され,「若者」の精神的リーダーであった彼女は,さらに文学的,哲学的な詩の世界へと我々をいざない,もう同年代の若者だけでなく,ずっと上の年代の聴衆をもうならせるようになった。
そこで,「Time after time~花舞う街で~」である。
この曲は単なる男女の恋愛歌ではない。これを「輪廻転生」の歌だというのは京都造形芸術大学助教授の中路正恒先生である。(トップページは遊動の哲学のために http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/)中路氏は「倉木麻衣の"Time after time ~花舞う街で~" (2003.9.14)」の中で,
この曲における「めぐりあい」は現世のものではなく,輪廻を超えてのいつか訪れるかもしれない来世への願いである。「春の終わりを告げる 花御堂」と歌われるのは,その輪廻をつかさどる釈迦への願いである
-という。若干20歳の倉木にはっきりとした意識があったかどうかは別としても,倉木の作詞法の深化を示すよい例となる。作詞家・歌手としての倉木麻衣はこれからも大きな成長を続けてくれるだろうということがうかがわれ,今後の活動が楽しみになるところである。
ここに至って倉木は,それまで得意としてきた「洋楽」アーティストとしての"Mai-K"から,日本の心を歌い上げる「和歌」の作者へとその創作の幅を広げた。「Time after time~花舞う街で~」だけでなく,「IF I Blieve」期の曲の多くがそういう意味で「翻訳不要」の「和歌」であることを考えると,アーティスト倉木麻衣の今後の創作活動の行方が気になるところである。よく考えれば,ファン層を大きく広げ,真の意味で日本を代表するトップシンガーになっていく可能性を感じる反面,一歩間違うと「Love, Day After Tomorrow」のファンを失う恐れもある。ただ,多くの聴衆はこの彼女の心の深遠までには心及ばないかもしれないが…。