「ビートルズ音楽論」


4 第四期 “サイケデリックの時代”

−シングル『ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー/ペニー・レイン』からアルバム『イエロー・サブマリン』録音期(1967年)

 この時期に発表されたシングル及びアルバム

  1. シングル『ペニー・レイン/ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー』(1967.2.17)
  2. アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967.6.1)

  3. シングル『愛こそはすべて/ベイビー・ユーアー・ア・リッチマン』(1967.7.7)
  4. シングル『ハロー・グッドバイ/アイ・アム・ザ・ウォルラス』(1967.11.24)
  5. 4曲EP  『マジカル・ミステリー・トゥアー』(1967.12.8)

  6. アルバム『イエロー・サブマリン』(録音:1967.6〜68初頭, 発売:1969.1.17)

 

(1)サージェント・ペパーの衝撃

 1960年代の末期,世は“ヒッピー”と呼ばれる髪の毛やひげをぼうぼうに伸ばし,半裸で,あるいは極彩色のコステュームを身につけて,マリファナを回し飲みしながら,共産主義的なコミュニティを作って生活する若者たちに席捲されていた。その存在は当時の芸術全般に大きな影響を与えたばかりでなく,彼らは口々に“愛と平和”を叫び,反戦運動の先頭に立つなど,政治的影響力をも持った。彼らの文化は“サイケデリック”(精神拡張的)と呼ばれた(また,花で体を飾ることが多かったため,“フラワー・ムーブメント”とも呼ばれたが)が,これは彼らのけばけばしい衣装が,まるでドラッグ(麻薬)による幻覚症状で見える情景に似ていたことに由来する。そして,この動きに,ビートルズも決して無縁ではなかった。無縁でないどころか,積極的に先頭に立ったのである。

 アルバムに先立って発表されたシングル『ペニー・レイン/ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー』,特に後者はビートルズの“サイケデリック”時代の到来を予測させたが,続いて登場したアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』には,全世界が驚愕した。

 このアルバムはアイデア自体はシンプルなものであった。ポールのアイデアで,ビートルズ自身が架空のバンド"Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band" に粉し,架空のコンサートを繰り広げるという趣向のこのアルバムは,しかし,彼らの予想をはるかに越え,“時代を画する”ロック史上最高のアルバムと呼ばれるようになった。

 単なるヒット曲の羅列ではなく,ひとつの明確な意図を持って,全体の曲作りがなされ,それがただ音楽だけではなく,その意図が歌詞やアルバムジャケットなどにまで及ぶとき,それを“コンセプト・アルバム”(あるいは“トータル・アルバム”)と呼ぶ。その意味で,『サージェント・ペパーズ』は最も初期の最も優れたコンセプト・アルバムとなった。アルバム全体に漂うのは,目がくらむばかりの極彩色のサイケデリックな世界。音楽の作りでは,『ビーイング・フォー・ザ・ベネフィト・オヴ・ミスター・カイト』などに見られる不可思議な効果音,『ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー』におけるインド音楽,『ホェン・アイム・シックスティ・フォー』の軽快なジャズ,『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』の圧倒的な音量のオーケストレイションなど,唯一無比のビートルズ・ワールドが展開され,歌詞の面では,ルイス=キャロル的不条理の世界がサイケデリックに語られた。たとえば,『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンズ』は,『万華鏡の目をした少女』『黄色と緑のセロファンの花』『新聞紙でできたタクシー』『マシュマロ・パイを食べる揺り馬人』などに囲まれた『ダイヤモンドの目をした“お空のルーシー”』の歌である。

 『ラバー・ソウル』『リヴォルヴァー』と積み重ねられてきたビートルズの音楽的実験はここにひとつの完成を見た。この時期のビートルズの具体的功績は,実験を実験として終わらせることなく,あくまでもそれを“ポピュラー”にしたということであろう。このアルバムは結果として大ヒットし,同時代の他の他のバンドにも巨大な影響を与えた。たとえば,ローリング=ストーンズは"Her Satanic Majesty's Request"といういかにも『サージェント・ペパー』を彷彿させるサイケデリック・アルバムを発表したが,そのジャケットにはビートルズの4人の写真があしらわれていたのである。

(2)ミステリー・トゥアー

 ジョージを通じてインド思想に傾倒し始めていたビートルズは,1967年8月,超越瞑想を説くインド人行者,マハリシ=マヘシュ=ヨギの思想に共鳴し,その教えを受けるべく,北ウェールズのバンゴアに向かった。しかし,その途中彼らにショッキングな知らせが飛び込んで来た。デビュー以来,陰に日向に彼らを支えてきたマネージャー,ブライアン=エプスタインの死である。原因は睡眠薬の過剰摂取であったが,自殺の可能性もあった。しかし,エプスタインの死は,ビートルズに単なる“マネージャーの死”以上の影響をもたらした。善きにつけ悪しきにつけビートルズの言動を規制し,行動をコントロールしてきたエプスタインの死によって,4人は行動の絶対的指針を失い,いわば“路頭に迷う”ことになった。そんな中,ビートルズの音楽的リーダーとしての主権を確立してくるのが,ポールであった。実際,『サージェント・ペパー』の制作をリードしたのはポールであり,この時期からビートルズ内におけるポールの発言権が高まってきた。そのことを最もよく示す事実はポールの提唱したTVドラマ,『マジカル・ミステリー・トゥアー』の制作である。

 このドラマは大きな視聴率を残したものの,「無味乾燥」と批評家たちから酷評され,“ビートルズ初の失敗”とまで言われた。内容は,確かに筋のないナンセンスなシーンの寄せ集めではあったが,現代風に言えば,これはいわば“プロモーション・ビデオ”集であり,斬新なアイデアに満ちあふれた,サイケデリックなアートであった。彼らは,少し時代の先を行き過ぎたらしい。ともあれ,音楽の評価はまた違っている。『マジカル・ミステリー・トゥアー』の4曲入りのEPは,現在日本ではアメリカ編集盤アルバムCDの形で手に入るが,全体的には“ミニ・サージェント・ペパー”の印象をぬぐえない。しかしながら,『ザ・フール・オン・ザ・ヒル』など,特にポールの手による優れた曲が印象深い。また,この直前,ジョンの『愛こそはすべて』がリリースされているが,ここで歌われた“愛”はビートルズの,そしてやがてはジョンの行動の指針となってゆくのである。

(3)音楽的多様性

 『サージェント・ペパー』において音楽的には頂点を極めたビートルズではあったが,この頃から各メンバー間の音楽的な傾向が明らかになり,それは,やがては,解散の火種となってゆく。

 ジョンとポールは,作詞・作曲とも完全にどちらか一方の手になるものであっても“レノン=マッカートニー”のクレジットで発表するということをデビュー前に取り決めていた。しかし実際は初期においては公演旅行中の移動の車の中で,二人が顔をつき合わせて,曲作りに励むという光景がよく見られたのであるが,この頃になるとそういった共同作業はしだいに影をひそめ,名前こそ共同作になっているが,実際にはどちらか一方の曲というものが増えてきた。そして,その作風の違いは『ラバー・ソウル』の頃から次第に明確になってきて,『サージェント・ペパー』の時代になると,はっきりと次のような傾向が現れ,誰が聞いてもその曲の作者が想像できるようになってきた。

 ジョンは『ヘルプ!』あたりから“私小説的”な内容を持つ歌詞を好んで書きはじめ,メロディ以上に詞の内容を重視しはじめるが,その流れは,『悲しみはぶっとばせ』『ノルウェーの森』と続いた。さらにこの時期になると,そこに幻想性が加わり,『ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー』のような傑作が生まれた。しかし,彼の作品を通して一貫して言えることは,“思っていないことは書かない”という主義であり,彼が"I love..." といえば,彼は本当にそれが大好きだし,"I want..." といえば,本当にそのことをしたいということであった。また,"I" といえば,実際に彼自身のことであったし,"He"とか"She" とかいった場合も,それは多くの場合実在のある特定の人物を指し示すようになってきた。つまり,彼はあくまでも曲にリアリティを求め,曲を通して何らかのメッセージを発信するということに意を用いていたのである。

 それに対してポールは,優れた作曲家として美しいメロディを書き続け,ビートルズがつねに“ポピュラー”であることに大きく貢献した。また,ビートルズは,楽器演奏の技術的な面については余り高く評価を受けていないが,こと,ポールのベース・プレイに関しては何人も賞賛を惜しまない。しかし,ポールはジョンのように“何を歌うか”ということより,それを“どのように歌うか”ということに,さらに大きな関心があったように感じられる。そして,次第にポールの歌う詞の世界は,あるテーマ性を持ちながらもあくまでも詩的フィクションの世界を物語るようになるのである。(『シーズ・リーヴィング・ホーム』など)その対比はシングル『ペニー・レイン(ポール)/ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー(ジョン)および『ハロー・グッドバイ(ポール)/アイ・アム・ザ・ウォルラス(ジョン)において際立っている。

 ジョージは,ジョンとポールの蔭に隠れて,デビューからかなり後になるまで,せいぜいアルバムの中に自作の曲を,1曲収録させてもらえるかどうかというところであった。実際に当時のジョージの作曲能力ではそれが限界であったとも言えるのだが,『ノルウェーの森』以後,インド音楽に興味関心を示すようになった彼は,その後も,音楽だけではなくインドの音楽・思想など文化全般に傾倒を深め,『ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー』では,インド人ミュージシャンを起用して,完全なインド音楽を追求した。

 リンゴは,この時期には自作の曲はまだ発表していないが,カントリー・ミュージックを愛し,アルバム中1曲はボーカルを担当していた。

 これらの音楽的傾向は,いまだ“分裂”を呼ぶようなものではなく,この時期,彼らの個性はあたかも色とりどりの糸のように絡み合い,極彩色の光を放つ布となっていた。アルバムにおいては,ジョンの辛辣さはポールの美しいメロディで中和され,ポールの甘ったるさはスパイスの効いたジョンの作品によってくどさが押さえられ,ところどころに“箸休め”のように,ジョージとリンゴの曲が配置され,極上のコース料理となったのである。しかし,この音楽的分化傾向は,次の時期にはメンバー間の軋轢を生み,分裂への前ぶれとなってゆくのである。