倉木麻衣という女性は大変美しい人である。いや,造作が美しいというよりは内面から滲み出してくる「魂の美しさ」を感じさせる人なので,いつまでたっても経年変化を感じさせず,いくつになっても美しい人だと思う。しかも各パーツを取ってみれば非常にセクシーな女性で,もし進む道が違っていたらグラビアアイドルでも第一人者になったことであろう。
しかし,なぜか倉木は21世紀のセックスシンボルにはならない。どんなに魅力的な女性であっても,倉木はあまり「性」を感じさせない。いわば「少年」の面影を残した中性的な魅力を持つ人物である。普段のコスチュームなどからそう思わせるのであろうが,決してそれだけではない。それは,彼女の「歌詞」中に現れる「愛」の姿によるものではないかと思われるのだ。
ここで,時間を借りて「愛」の話をしてみたい。
愛はふたつの顔を持つ。ひとつは「エロース」と呼ばれ,もうひとつは「アガペー」と言われる。
エロースとは,もともとはギリシア神話の愛の神のことである。普通は翼を持つ少年の姿で表され,ローマ神話ではクーピードゥス(キューピッド)と呼ばれる。この神は富裕の神と貧乏神の間にできた息子であり,常に美しいもの,価値あるものを求めてさ迷う。すなわち,エロースの愛とは「価値あるものを求める心」のことである。
たとえば,「おいしいものが食べたい」「かわいい彼女が欲しい」という気持ちがそれに当たる。前者は食欲,後者は性欲と置き換えることもできるが,それは結局“自分のための愛”“奪う愛”である。
食欲がなくなれば人間は固体を維持できなくなり命を落とし,性欲がなくなれば人類という“種”が地球上から消えてしまう。つまり,人間は,他の生物の命を奪いそれを食しなければ生きてゆけず,出家僧のように性欲を消し去ればその遺伝子もともに消滅するのである。
結局,本能に支えられた“欲望”がエロースであるとも言えるが,エロースは,ただそれだけにとどまらず,「美しい音楽が聞きたい」とか,「尊敬する人物と語り合いたい」というように,自らにとってプラスとなる,自らを高めようというような気持ちのことを総称する。だからこそ,これは,極論を言えばイヌやネコのみならず,昆虫やさらなる下等生物にも存在する“感情”である。
ところで,人間の脳の大部分を占める部所を大脳皮質というが,これは“古い皮質”と“新しい皮質”の二つに分けられる。“新しい”“古い”といっても新品とか中古というような意味ではない,“古い皮質”とは,人間がサルと同様の存在であった時代から持っている部分であり,ここでは主に食欲,性欲などの本能の部分を司っている。これがなければ人間は生物として生きていくことができない。したがって,事故などによってこの部分を損傷すれば死に直結するし,その性質上下等生物にも(大きさはともあれ)存在するものである。
これに対して“新しい皮質”は,人間がその進化の過程で獲得してきた新しい脳である。この部分は類人猿などの高等生物にはいくらか見られるが,下等生物にはほとんど存在しない。したがって,“人間独自の脳”ともいうことができるだろう。そしてここは,言語とか数学的計算とかいった“知能”を司っている。そして,もう見当がつくように,エロースと呼ばれる,価値あるものを求める愛は,“古い皮質”でコントロールされ,もうひとつの愛が,“新しい皮質”によって生み出される。それが,同じくギリシア語でいう“アガペー”である。つまり人間は,他の生物には見られない,“独特の愛”を持っているのである。
現代では,エロチックという言葉が「性的」な意味を強調されているがために,「エロース」という言葉は非常に卑猥な響きを持って語られるが,本来は決してそういったものではない。この高きを目指す感情があったからこそ,人類はその文明を発展させてきたのである。
しかし,本質的には「男女の愛」はエロースであるため,世で歌われるラブソングのほとんどはエロースを歌ったものであることが分かる。
「君がいなければ僕は生きていけない」
と歌われる曲があるとすれば,彼は「自分のために」彼女を求めているのであって,その結果「彼女が幸せであるかどうか」は実は別問題である。
もちろん倉木の曲も,多くはこのエロースの愛を歌ったものである。
たとえば「風のららら」で,
「もう離さない 君に決めたよ」
と歌われるとき,主人公は自分のために彼女を愛することを決めたのであって,彼女を愛することによって利益を得るのは自分である。しかし,だからこの曲が「いやらしい」とは誰も思わない。エロースとはそういうものであることを再確認しておきたい。
「Make my day」の
「強がってばかりでも本当は きっと一人きりではいられない」
は,自分が辛いから彼にそばにいて欲しいのであり,
「I don't wanna lose you」では,
「I don't wanna lose you
もう少しだけ 私だけ見ていて欲しい」
というが,彼を取り戻せば「隣で微笑む ウワサの娘」は不幸になる。すなわちエロースとは「利己的」な愛でもある。
ところで,アガペーとはそのエロースとは逆方向の愛,奪う愛ではなく「与える愛」である。しかし,通常は人間に可能な愛ではなく,(特にキリスト教において)神のみが持つ無限の無償の愛であるとされる。
新約聖書に次のような一節がある。
◎『新約聖書』-「ルカ福音書」第15章-83
中央公論社 中公バックス 「世界の名著」13 『聖書』責任編集:前田護郎 より
彼(イエス)はいわれた,
「あるひとにふたりの息子があった。弟が父にいった,
『父上,財産の分け前をわたしにください』
と。父は身代をふたりに分けた。いく日も せぬうちに,弟はその分全部をまとめて遠い国へ行き,そこで放蕩に財産をばらまいた。皆使いはたしたとき,その国にひどい飢饉があって,彼は困窮しだした。そこでその国に住むある人に身をよせると,畑へやって豚を飼わせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思ったが,だれもそれをくれなかった。そこで本心に立ちかえっていった,
『父上のところではあれほど大勢の雇人に食べ物が余っているのに,わたしは ここで飢え死にしようとしている。出かけて父上のところへいっていおう。父上,天に 対しても,あなたにむかっても,わたしは罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる資格はありません。あなたの雇人のひとりのようにしてください,と』。
そこで出かけて父のところへ行った。ところが,まだ遠く離れているのに,父は見てあわれみ,走りよって首を抱いて口づけした。息子はいった,『父上,天に対しても,あなたにむかっても,わたしは罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる資格はありません』と。しかし父は僕(しもべ)たちにいった,『早く一番よい着物を持って来て着せなさい。手に指輪をはめ,足に靴をはかせなさい。それから肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おう。このわたしの息子は死んでいたがよみがえり,失われていたが見つかったから』と。
そこで祝が始まった。兄は畑にいたが,帰りに家に近づくと,音楽や踊りが聞こえた。そこで下男のひとりを呼びよせて,あれは何かとたずねた。下男はいった,
『弟様がお帰りです。無事に戻ったとて,お父さまが肥えた子牛をほふらせなさいました』と。
兄は怒って家に入ろうとしなかった。父が出て来ていろいろなだめると,父に答えた,
『ごらんのとおり何年もわたしはあなたにお仕えし,一度もお言いつけにそむいたことはありません。それだのに,わたしには友だちと楽しむために山羊一匹も下さったためしがありません。ところがあのあなたの息子が遊女といっしょにあなたの身代を食いつぶして帰ってくると,肥えた子牛をほふるとは』
と。父はいった,
『子よ,おまえはいつもわたしといっしょだ。わがものは皆おまえのものだ。しかし,よろこび祝わずにおられようか,このおまえの弟は死んでいたが生きかえり,失われたが見つかったから』
と」
ここに描かれる「父の愛」これこそが「神の愛」アガペーの本質である。アガペーには愛するために理由は要らない。
彼女が「美しいから好き」,「やさしいから好き」というのはすべて条件付の愛であるから本能の愛エロースであるのだが,父はその子がよい息子であろうが放蕩息子であろうが,そんなことを問題にすることなく平等に愛するのだ。
ならば東洋ではどうだろう。
鎌倉時代の僧,浄土真宗の祖,親鸞は次のように語る。
◎『歎異抄』 唯円 編
「善人なをもて往生をとぐ,いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく,悪人なを往生す,いかにいはんや善人をやと。」
すなわち,
『世間の人は,よい行いをした人こそ,仏様に救われて極楽へ行けるが,悪人は地獄へ落ちるのだと言うけれど,仏様は,決してそのような心の狭いお方ではない。よい行いをした人でさえ,仏様に救われて極楽へ行けるのだから,悪人が行けないはずがない。仏様は,そのような弱者をこそ選んで救ってくださるのだ』
という意味で,仏教では『慈悲』と言う言葉で呼ぶ。洋の東西は違えども,これもやはり“無償の愛”である。
ならばこの無償の愛,無条件の愛としてのアガペーとは人間には不可能な愛であるのか?
しかし,実は次のような出来事があった。
◎早乙女勝元『アウシュビッツと私』草土文化社 令文社『96高校生のための新現代社会資料集』 215ページより転載 (一部書き換え:ちゃぶー)
1933年,ドイツでヒトラー率いるナチス党が政権をとると,彼らは独裁体制を築き上げ,ヨーロッパの征服を開始します。そのなかで,国内の自由は弾圧され,ナチスに反対する者は次々と逮捕され,「強制収容所」へ送られました。彼らはそこで死ぬまでこき使われて,働けなくなった者や,女や子供,そしてユダヤ人は,(ただユダヤ人であるというだけで)裸にむかれ,毒ガス室で「屠殺」されたのです。彼らの皮は剥がれ,それでカバンが作られ,脂肪は抜き取られ,石鹸が作られました。このような収容所はナチス占領地区に900ヵ所以上もあり,400万とも600万とも言われるユダヤ人を含めて,信じられないほどの多数の人命が,ヒトラーの命令のもと虐殺されたのです。
さて,その収容所のなかで最も有名な(いや「悪名高い」というべきでしょうか)ものは,ポーランドにあったアウシュビッツ収容所でした。第二次世界大戦中,ここにポーランド生れのマキシミリアノ=マリア=コルベ神父が収容されておりました。神父は1894年生れで,1930年には長崎に伝導に来て,6年余りを日本で過ごしたこともある人でした。帰国してからは神学校でスコラ哲学(キリスト教神学)を教えておりましたが,39年に,ナチスの政策に批判的だったということで捕らわれ,幾つかの収容所を引き回されたあげく,アウシュビッツに連行されたのです。 収容者として強制労働にたずさわっていたところ,ある日,脱走者が出ました。一人でも脱走者が出れば,SS(Schtz-Staffel ナチス親衛隊)は,その見せしめとして無差別に10人あるいは20人を選び,脱走者が捕まるまで,水も食物も与えることなく地下室に閉じ込めたままにするのです。この「餓死室」から,生きて再び帰ってきたものはいません。 しかし,ガス室行きの選別よりも,生死を賭けて逃亡の機会をねらう囚人は少なくなく,41年7月末に,また逃亡者が出ます。そこで餓死室行きの10人が選ばれましたが,神父はそのなかには入っていませんでした。そのとき選ばれた囚人のなかに,フランシーチェック=ガイオニックというひとりのポーランド人兵士がいました。彼は死ぬことがよほどつらかたのでしょう,「死への旅人」に選ばれると,「さようなら,女房や子供たちよ。おれの分まで長生きしてくれ…。」と声をあげて泣き叫びました。しかしそのときです,ひとりの人物がつかつかと前に出て,静かな口調でこう言いました。「私をあの人とかわらせてください。私には家族がいませんので…。」コルベ神父でした。
神父の要求は入れられて,兵士の身代りになったこの人は,餓死室の中で夜も昼も祈り続けて,14日間ついに一滴の水も口にできず,1941年8月14日,壁に寄りかかったまま息絶えました。47歳の生涯でした。 なお,ガイオニック兵士は,1945年,戦争が終わるとアウシュビッツから奇跡の生還をとげ,コルベ神父の名が世界に知られるようになりました。
稀有な例ではあるが,人間にも決して不可能な愛ではないことが分かる。
一番はじめに言った,倉木はその美貌にもかかわらず「性的」な存在にはならない。その理由の一端が倉木の語る「愛」の姿から見えてくる。
倉木の歌う「愛」には,本来男女の愛であれば表裏一体であるはずの「性」を感じさせるものが極端に少ない。倉木の楽曲の舞台設定が男と女の関係を歌っているのか,それとも同性間の「友情」を歌ったものであるか区別がつきにくい(「明日へ架ける橋」はその好例)ということは,そのことを物語っている。それが,彼女の曲調にえもいえぬ「爽やかさ」を与え,結果的に「安心して聴くことができる」曲世界を形成している。倉木ファンに年若い女性が多いことはその現れであろう。
また,他のアーティストに比べ倉木の曲には意外なほどラブソングではない曲が多いことに気がつく。「PERFECT CRIME」「Start in my life」「不思議の国」「fantasy」等枚挙にきりがないが,倉木は「エロース=愛」を歌わないのである。
さらに特徴的なことは,直裁的に「愛」を歌い上げてはあっても,そこには偏狭な男女の愛を超えた世界が描かれているものが多い。それが一番はっきりした形を取って現れるのが,名曲「always」である。
この曲ははっきりと「愛」を歌う。
「always give my love
always give my love to you」
と,何度も何度も力強く「愛」が歌われようとも,そこには「恋人」の姿は見えない。そこで歌われる「愛」はそういった現世を越えた「天上の愛」=「アガペー」の姿である。
倉木は10代にして,すでに神の領域の「愛」を歌った。
それこそが,彼女を他のアーティストと一線を画す存在に高め,性別や遠近,時空や国境を越えた普遍的な存在に押し上げている理由である。
倉木を「神」とあがめる者は多いが,それはあながち奇矯な行為とはいえないと思う。彼女のことを知れば知るほど,我々は倉木の中に「神性」を発見するのであるから。