人の運転する車に乗っていては道筋を覚えることは出来ない。
逆に,自分でハンドルを握り締め,何度も道に迷いながら地図を頼りにたどり着いた所へは,もう二度と迷うことはない。
人というのは不思議なもので,与えられたものは簡単になくしてしまうが,苦労して手に入れたものは何があっても手放すことはしない。
これは,実は音楽に関しても同じことが言えるのではないか?
このサイトは倉木麻衣に浴びせられた不当な非難中傷を合理的に排するということを目標としているので,その逆に他のアーティストの誹謗中傷につながるような意見は差し控えたいのだが,実はこの世の中には「与えられたアーティスト」がずいぶん多い。大手プロダクションが管理する,いわゆる「アイドル」の皆さんにはその傾向が顕著である。
彼ら彼女たちはとにかく露出が多い。テレビに雑誌に,その他のメディアに姿を晒し続け,売れっ子になると睡眠時間2~3時間ということさえあるとよく聞く。その結果彼ら彼女たちは「巨大な人気」を獲得し,スターダムに君臨する。しかし,ブームが去ると凋落も早い。つい先日まであれだけマスコミを賑わせていたというのに,あっという間に消息さえ定かでなくなり,男性なら暴露本を出版し,女性ならヘアヌード写真集を出版することくらいでしか大衆との接点を持たなくなる。悲しいほど繰り返された事実だ。
翻って,「倉木麻衣」はどうだろう。
彼女はどこにもいない。
いや,いる。しかし,目には見えない。
情報はBeing系の雑誌,冊子を通じてのみ滴り落ちる水滴の如くにしか与えられず,テレビやラジオで生の姿を拝することはほとんどない。その数少ない例が「Mai-K TV」であり,「Baby I Like」であり,「紅白歌合戦」であった。しかし,前二者はすでになく,後者は365日に2分半だけの露出に過ぎない。つまり「倉木麻衣はどこにもいない」のである。
だからこそ,我々は探さなければならない。どこにいるか分からない「倉木麻衣」を…。
インターネットを駆使し,雑誌を買い集め,ライブチケットを手に入れ,我々はどうにかして倉木の素顔に迫ろうとする。そこには,大変な努力がある。座していては決して与えられはしない。我々は努力を通じてしか「倉木麻衣」に近づくことは出来ないのだ。
だからこそ言えること。…努力して,苦労して得たものは決して捨てられることがない…という真実である。
私もなぜ自分がこれほどまでに倉木に惹かれるのかを自問することがある。もちろんそれは彼女が,非常に質の高いシンガーであり,稀有の才能を持つアーティストであるからなのだが,それでも,もし彼女の情報が6月の雨の如く降りそそいできたとしたら,我々は,もうこれほどの「努力」をもって倉木の情報を集めようとすることはなくなるだろう。そうなれば,倉木もいつか飽きられ,姿を消していくかも知れない。その意味で,GIZAの露出制限政策はある意味で的を得た戦略ではあるのだろう。
話は変わるが,倉木のライブに3回参加して感じたことがある。
それは,聴衆の質。
明らかに高い。
何を持って「高い」というかは別にしても,私は参加したライブ会場で一人の「ヤンキー」の姿も見なければ,一人も茶髪,ミニスカ,ルーズソックスの女子高生の姿も見なかった。(もちろんそういう人が悪いわけではなく,彼ら彼女たちが倉木のファンであることはうれしいことなのだが,要するに普通の「アイドル」のライブとは雰囲気が異なるということ)これは実は驚くべきことである。逆に目に付くのは,メガネをかけた(推定)理科系学部の大学生,ひと年取った熟年,初老の紳士,そして母親の同伴を受けた品行方正そうな女子中学生…。すなわち,とても「21歳の美人女性歌手」の公演ではなく,観客の雰囲気だけ見ればクラッシックのコンサート,それも人気あるベートーヴェンやモーツァルトの交響曲ではなく,「知る人ぞ知る」マニアックな弦楽四重奏団の小ホールでの公演に集った「マニアックな」聴衆を想像してしまう。彼らは一人一人が「確信犯」である。ただなんとなく誰かに連れられてきたのではなく,ただなんとなくテレビで宣伝しているからやってきたのではなく,チケットの争奪戦を勝ち抜き,どんなに公私共に多忙であろうとも万難を排してホールに詰め掛けた筋金入りのコアなファンである。なぜそうなるかは明らかだ。努力できないものは倉木のファンにはなれないからだ。
また,ファンサイトの運営者を見ても,高学歴層が多く,中高生にしても大人顔負けの知識・技術を持っている方が多い。
倉木のファンには「ちょっと倉木を好き」という人は少ない。「命がけで好き」かアンチ倉木かである。アンチはアンチで倉木の存在の大きさに脅威を持っているからこそ非難中傷を繰り返すのであるから。アンチ巨人が実は「巨人ファン」というのと同じ理屈で,実は倉木の"ファン"ある。どちらにせよ,我々は倉木に対して「ただなんとなく・・・」という態度をとることができないのだ。それもやはり同様で,倉木が「努力して意識しなければ認識できない存在」であるということに由来する。
結論めいたことを言えば,「倉木のファンをやることは大変だ」。
大変な努力をしなければ,真の倉木を感じることは不可能だ。しかしだからこそ,試行錯誤の上,たゆまぬ努力によって獲得された「情報」を我々は心から信じ,尊重する。そして倉木に夢中になるのである。
もっと倉木にテレビに出てほしいという声はよく聞くが,もしそれによって倉木の存在が逆に希薄になり,歌手生命を縮めることになるのなら,それにこだわることはない。トップになれないのではなく敢てトップに立つことをせず,常に上位にいて,圧倒的な存在感を持ち続ける。いわば"小沢一郎的手法"により,倉木は末永くJ-POPシーンに「君臨」することができるのだから。