倉木に関する2ちゃんねらーの中傷で目に付くものに「歌が下手」というものがある。続いて,この件に関して考察を加えてみたい。
「歌が下手」という中傷を見ると面白いことに気が付く。いわく,「声量がない」ということを言うものはあっても,「音程をはずす=音痴」という批判がほとんど見られないことだ。つまり,彼らは言外に「倉木は音楽的センスはあるが,声が小さいので歌手としては二流である」という非難を浴びせているわけである。この問題に対しては明らかな誤解があるので,反駁は意外と容易であろう。
「歌手」にはいろんなものがある。「オペラ歌手」「民謡歌手」「演歌歌手」「ロック歌手」等々多くのジャンルがあり,それぞれに人々に愛されている。しかし,これらの「歌手」ジャンルは大きく二つに大別することができる。それは「電気的増幅を使用しない歌手」と「する歌手」である。さまざまな例外は存在するものの,基本的に前者の代表は「クラッシックの声楽家」や「民謡歌手」などであり,その他のものは一般に後者に分類されるいわゆる「ポピュラー歌手」である。この両者の基本的違いは何だろうか。
かつて(マイクロフォンとアンプが発明される前は)歌はすべて「ライブ」の存在であり,歌手は目の前の聴衆にのみ向かい歌いかけたものだ。クラッシックの歌手が代表例であるが,声の大きさにはおのずから限界があるから,彼らが対象とするのはせいぜい小規模なホールに入るだけの聴衆である。そこには電気的増幅装置は存在しないから,ホールの隅々に至るまで声を通すためには,特異に訓練された歌唱法が必要となる。すなわち,腹式呼吸で,喉を大きく開け,朗々とした発声を行う。そうしなければ遠い席の聴衆は歌手の歌を聴くことはできない。すなわちオペラ歌手を代表とするクラッシックの声楽家は,最も優れた「ライブ・ミュージシャン」なのである。NHKのアナウンサーの発声も同様で「声を通す」ことに主眼がおかれる。それでは,ポピュラー歌手はどうであろうか?ポピュラー歌手の場合は基本的に「商業歌手」であるから,その歌唱はレコード,テープ,CD,映画などに録音され,大量に複製が作成され頒布されるということが前提となる。もちろんライブであっても電気的な増幅が行われるからドーム球場でのコンサートが可能になる。
世界初のポピュラー歌手といわれるのは,クリスマスソングの定番「ホワイト・クリスマス」で知られるアメリカのビング=クロスビーである。彼がなぜ「世界初のポピュラー歌手」と言われるかといえば,それは彼の歌唱法にあった。彼はそれまでのクラッシック的発声法に替わり,ささやくような歌唱法を採ったのである。それは1930年代において,彼の歌はフィルムに録音されミュージカル映画として世界中で上演されることが前提となっていたからだ。
もう20年位前になるがNHKのテレビ番組で面白いシーンを見たことがある。それは,クラッシック歌手とポピュラー歌手の歌声をオシロスコープに掛け電気的に分析してみるという実験であった。するとクラッシック歌手の声はきれいなサインカーブを描くのに対し,ポピュラー歌手(森進一であった!)のそれは,激しいギザギザ状態となる。理由は明らかだ。ライブで歌うことを宿命つけられたクラッシック歌手の声には「雑音」が混入しては困る。ホールの隅々に届かなくなるからだ。民謡歌手がろうそくの前で,炎を揺らすことなく歌唱できるのも同様の理由である。しかし,そのためには犠牲にしなければならないことがあった。それは「個性」である。クラッシックの歌手がみんな同じ声をしているなどとは毛頭言うつもりはないが,やはり雑味を取り払った声はどうしても電気信号に近づき,似通ってくる。ソプラノ歌手の声にもっとも顕著であるが,聴きなれないものにとっては声を聴いても,歌手が誰か分かりづらくもなる。それに対しポピュラー歌手の声は雑音成分が多いという意味で「汚い」。当然声は通りにくくなるので,ライブ・パフォーマンスにおいても電気的増幅は必須となる。しかし,逆に「個性」を手に入れた。しわがれ声であったりだみ声であったり,「汚い」のだが人々を魅了する声がある。それこそが優れたポピュラー歌手というものだ。
前置きが長くなったが,それでは倉木の場合どうなのか。
一聴して分かることであるが,彼女の声は小さい。いや,大きな声が出せないというのではなく,ファルセットを多用するせいもあり「大きな声を出さない」のだ。彼女のささやくような歌唱法は,だからこそビング=クロスビーにまで連なる「正統派ポピュラー歌手」の系譜なのである。しかし,近年"歌姫"と呼ばれる日本人女性ポピュラー歌手の中にも,大声量で朗々と歌い上げるタイプの歌手がよく見受けられるようになった。彼女たちの声はよく通る。したがって「ライブで聴きやすい=歌がうまい」という評価を受けがちである。しかしそれはあくまでも個性の範疇であるので,倉木が大きな声を「出さない」ことが「歌が下手」ということには全くつながらないのは明らかである。彼女の歌(の言葉)は確かに聞き取りにくい。歌詞をメロディの中に無理やり押し込み,言葉のセンテンスが音楽のフレーズを超えてあふれ出す("delicious way"などその代表例)楽曲が多いので,その傾向は一層顕著になり,ヘッドフォンで聴いて初めて歌詞が聞き取れるといったことも珍しくはない。しかし,再度強調しておきたいのは,それは歌の上手・下手とは何の関係もない別次元の問題である。ピカソの絵画とモーツァルトの交響曲のどちらが優れているかを論ずるようなものだ。
「優れた歌手」という概念は何を意味するか。洋楽にたとえれば面白い例が存在する。ビートルズにポール=マッカートニーという「歌手」がいる。しかし,私は彼が「ボーカリスト」として評価されている論評をあまり見たことが無い。「バッハ以来の天才的作曲家」「稀代のコンポーザー」という評価ばかりが目に付くのである。一方ジョン=レノンは「鬼気迫るロック・ボーカリスト」という評価を受ける。それはなぜか。その理由は実はポール=マッカートニーが「器用すぎる」ことにある。この天才はほとんど全ての楽器をこなす。作詞も作曲もする。絵も描く。そしてボーカリストとしては「七色の声」を持つ。ご存知の方はなるほど!とお分かりだろうが,"Yesterday","Rocky Racoon","Oh! Darlin'","Why Don't We Do It In The Road"らを聴き比べてみれば,それはとても同じ人物が歌っているとは思えない多様さを持つ。その曲その曲で雰囲気を変え,対象曲の主人公に「なりきる」のである。ところがこの「器用さ」が逆にボーカリストとしての評価を下げてしまっている。大体「天才ボーカリスト」としてどんな名前が思いつくか。ロッド=スチュアート?ミック=ジャガー?…なるほど,彼らはすばらしい「歌手」である。しかし,共通項がある。それは,彼らは「何を歌ってもロッド=スチュアート」であり,「何を歌ってもミック=ジャガー」なのだ。彼らには器用さよりも,何があっても自分の世界を曲げないという頑固さがある。そして,世間はそのような「歌手」を「優れたボーカリスト」として評価する傾向があるようだ。
一方振り返って「倉木麻衣」とはどのような「歌手」なのか?実は彼女は非常に器用である。一聴して分かることであるが,"Love, Day After Tomorrow","The ROSE","不思議の国","イミテーション・ゴールド"を同じ人物が歌っているとはとても思えないのである。彼女もまた「七色の声」を持つ。そして,その多彩な表現力によって特にアルバムにおいては絢爛豪華な錦絵のごとき「Mai-K ワールド」を紡ぎだしている。そして,その才能こそが多くの倉木ファンを魅了しているわけだ。しかし,どうも批判者にとってはこの点が気に入らないらしい。不思議なことである。
下手どころか,倉木は天才的な歌唱を身につけている。大野愛果のつむぎだす複雑なメロディを,若い頃からファルセットを多用しながらいとも簡単に歌いこなし,独特の歌の世界を築き上げてきた。近年ファルセットボイスを多用する「元ちとせ」が大きな話題となったが,倉木はもう数年前からそれを具現化してきている。「歌が下手」という中傷はおのずから消滅するであろう。