しかし,ここまで書いてもなお,「倉木は自分で作詞していない。ゴーストライターが書いているのだ。」との主張が2ちゃんねらーから寄せられる。この件に関してはどうだろうか?
確かに16-17歳の少女が書く詞がミリオンヒットを飛ばせるものか?実は同じような主張は宇多田の詞にも寄せられるのだが,この疑問に関しては詞の中に解決のヒントがある。
倉木の詞を細かく見てゆくとある事実に気がつく。
日本語の歌詞では分かりにくい。メロディを重視して言葉を飾りにしてしまえば単語の羅列でも形はできる。しかし,英語詞の場合はあまり遊びの余地がない。かつて,めちゃくちゃな英語を書いたTシャツを恥ずかしげもなく着て歩いている若者がいたが,最近は語呂さえよければ文法も意味もむちゃくちゃでいいとは,さすがに考えられなくなっている。そこで,倉木の英語詞を"Love, Day After Tomorrow"を例に分析してみる。
著作権の問題があるので,あまり細かい引用は差し控えるが,明らかに二つのことに気が付く。まずひとつは使われている単語が非常に初歩的なものである,言い換えれば中学生でも知っているような単語だけで書かれているということである。また表現も熟していない。「英語」としてはこなれておらず,日本語直訳調の英語詞が目立つ。これは他の曲でも同様で,ある程度の英語力を持つ高校生なら,まず辞書を引くことなく読み通すことができる。わざわざ高校生が書いたと偽装したのならともかく,プロの「おとな」の作詞家なら,このような詞は書けなかったのではないか?
もうひとつの事実がある。倉木の英語詞はほとんど「韻」を踏まない。
私も戯れで,多少は自分で作詞作曲などすることがあるので感じることだが,カッコつけて英語詞を書こうとすると韻を踏まずにはいられない。プロならなおさら避けて通ることができないことだろう。しかし,倉木の詞は韻を踏んでいないのである。そのため彼女の英語詞部の歌はあたかも「朗読」のような誠実な迫力を持って聴くものに迫る。
この二つの事実から感じられることは,これらの楽曲の歌詞がプロではなく,歳若いアマチュアによって書かれたということである。これは,やはり「作詞:倉木麻衣」という事実を証明する証拠のひとつになるのではないだろうか?
しかし,それでもまだ,「偽装」疑惑は残る。では,さらにもうひとつの証拠を提示しよう。デビューアルバム「delicious way」の中に"happy days"という曲がある。かなりパーソナルな経験を歌った歌だが,この歌詞から見えてくるものがある。
倉木自身がこれはデビュー準備をきっかけに離れ離れになった親友のことを歌った歌と言い,その親友に対する謝辞が"delicious way"のアルバムジャケットの中に記されている。ここまで手の込んだ偽装がなされるであろうか?また,クレジットには「Words by Mai Kuraki」と記されている。しかし,著作権は作者の死後まで保護される。いろいろと偽装すれば後々のトラブルの種になることは明らかで,製作者側がそのようなリスクを犯すとは考えにくい。それでもまだ,「一部の曲は実際に作詞していても,ゴーストライターが書いたものもある」という非難があるかもしれない。こう言われれば倉木だけではなく,世のほとんどの作詞家が疑惑の対象になってしまうので詳述しても仕方ないのであるが,倉木の詞を読み通してもうひとつ感じることは,彼女が非常にユニークな,よく言えば独創的な,悪く言えば他人には分かりづらい独特のボキャブラリーを持っているということである。たとえば"delicious way"という言葉。彼女の言によると,「素敵な明日へ続く道」という意味なんだそうだが,説明されないと分かりづらい。また,「life」という言葉を「生活」という一般的な言葉ではなく「人生」という重い意味で使いたがる。全ての曲を通して,一貫した「倉木節」を感じさせるのだ。
以上のようなことからやはり結論として,「Words by Mai Kuraki」とクレジットされた楽曲に関しては,間違いなく倉木自身の作詞であると結論付けざるを得ないのである。ただし,作詞に関するアドバイザーは存在すると思う。その根拠として,彼女の英語詞に「文法的ミス」があまり見られないということが挙げられる。あれだけ独自の言葉遣いを持ち,初歩的な単語で詞を綴る彼女が,しかしあまり文法的ミスを犯していないということは,やはり相談に乗ったり,チェックをしてくれている人がそばにいるであろうことは容易に想像がつく。しかし,そのアドバイザーにしても,倉木の詩的世界を左右するような過剰なアドバイスをしてはいないことは,前述の内容が示すとおりである。また,数曲ではあるが,共同作詞者のクレジットが存在することも「正直さ」の現われと感じられる。