ネット上の掲示板を見ると,しばしば次のようなテーマに出くわす。
「君は倉木麻衣をかわいいから好きになったのか,それとも音楽が好きでファンになったのか?」
この問に対して,特に若い男性ファンは本音はそのルックスに魅せられているにもかかわらず,カッコつけて「音楽性」を主張したりする。しかし,女性ファンの態度ははっきりと正直である。彼女たちは「かわいらしい」倉木が,「力強く」自分たちに語りかけてくれることに心惹かれているのだ。
くだらない話題とも思えるが,これは倉木を論じる上で実は非常に重大なテーマである。
「アイドル」か「ミュージシャン」か…これは,ずっとずっと昔から「芸能人」について語られてきた重大なテーマで,往々にして二律背反であることが多い。(もちろんすべてではないのは当然)山口百恵も宇崎の曲を歌い始めてからは,アイドル特有の作り笑いを封印した。つまり,どうもこの二つを両立させることは難しいらしい。
現在の日本の音楽シーンを振り返っても,私の乏しい知識でも,なんとなくその傾向は変わっていないと思われる。
そこで,倉木である。
*宇多田ヒカルと倉木麻衣
倉木が17歳でデビューしたときのことはさすがの私も知っている。"Love, Day After Tomorrow"のPV(プロモーション・ビデオ)は鮮烈であった。「こんな幼い美少女が,このような難曲をいとも簡単に歌いこなすとは…」私だけではなく,世間の多くがそう思い,この曲はミリオンセラーとなった。しかし,彼女は決して幸せなデビューを飾ったわけではない。順風満帆の彼女の前に立ちふさがる影…それが宇多田ヒカルであった。
倉木のちょうど1年前に"automatic"で鮮烈なデビューを飾り,"first love"の巨大なヒットを生み出した彼女は,当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった。そんな中で「歌手」倉木は生まれた。これは彼女にとって幸せであったのか不幸であったのか?
女性R&Bというこれまでの日本ではあまり耳慣れない音楽(強いてあげれば和田アキ子?)は,宇多田のブレイクによって国民的音楽となり,業界にとっては「2匹目のドジョウ」を狙うに幸いの状況であった。そして,そこにぶつけられてきたのが倉木である。
確認しておきたいが,私は倉木のファンであり,彼女の全曲を知っているが,宇多田の曲は数曲しか知らない。よって,論旨は当然倉木サイドで展開されるが,客観的に見て避けられないことは倉木不利の内容も書かざるを得ない。
倉木自身にその意思はなかろう。デビュー直前の16歳の高校生にとって,時代の大スターに対する憧れはあっても,宇多田を商業的に「パクる」というような気持ちがあったとは考えがたい。
しかし,周りの「おとな」たちはどうだったろうか。宇多田の巨大なセールスを目の当たりにすれば,関係者は誰でも「2匹目のドジョウ」を狙いたくなるであろう。そしてそれが,倉木にとっての幸運でもあり,不幸でも会った。
幸運とは前述したとおり,宇多田によって開拓された女性R&B「歌姫」ブームである。しかし,彼女にとっての不幸は,そのセールス手法により現在までも2ちゃんねらーに付きまとう「宇多田のパクり」説である。
たとえば,プロダクション・レコード会社側はなぜ"Love, Day After Tomorrow"のPVで倉木を椅子に座らせたのであろうか?その英語混じりの歌詞,体を左右に揺さぶりながら歌う仕草,そして椅子に座れば,それを見た誰もが,当時すでに伝説と化していた宇多田の"automatic"のPVを想起したことであろう。"Love, Day After Tomorrow"はミリオンヒットとなったものの,この製作者側の手法が以後彼女について回る「宇多田のパクり」という不幸を生んでしまった。
しかし,実際はどうなのか?何度も言うように,私は日本の音楽シーンに非常に疎いし,宇多田の曲もせいぜい片手くらいしか知らないからあくまでも一般論を述べたい。
現在ビートルズの音楽についてその音楽性に異議を唱える者はそうはいないだろう。彼らは「世界最高」の音楽を築いたものとして歴史に刻まれている。しかし,彼らの音楽を注意深く聴けば,そこには彼ら以前の50年代のR&BやR&Rのエッセンスが,見事に換骨奪胎して取り込まれていることに気が付く。つまり,彼らは偉大なる「パクり屋」だったのである。しかし,彼らはその前時代の音楽を見事に自分たちのものとして取り込み,強烈なオリジナリティを生み出してきた。すなわち,音楽にせよ文学にせよ美術にせよ,優れたアーティストは常に前代の天才を真似,その上に自分自身のアイデンティティを形成していき,新しいオリジナリティを創り上げてきたのである。
私は倉木に対しても同じことを考える。
当時宇多田と同年代の彼女が,先行してスーパースターとなった宇多田を意識しないはずはないし,彼女の中にあるよいものをどんどん取り込んでいくことは当然のことである。大体,音符の数は知れているのだから,音楽というものは常に何かに似てはいるものだが,それが,R&Bという非常に制約の大きい音楽ジャンルの中ではさらに強調されることは仕方がない。実際,R&B色の濃い倉木のファーストアルバム「delicious way」を聴けば確かに宇多田との共通点も目立つであろう。しかし,第2作以降はR&B色が薄くなり,決してそれほどの類似は感じられないのである。この件に関しての結論はひとつ。問題は倉木を椅子に座らせたプロダクション・レコード会社側の政策の問題に過ぎないということである。
そこで,最初のテーマ「アイドルかミュージシャンか」に戻ろう。当初から指摘されていたことだが,宇多田と倉木の間にあった最大の相違はそのルックスであった。もちろん好みの問題があるから私もここで「倉木のほうが宇多田より美しい」などとは毛頭言うつもりはない。しかし,倉木の方が宇多田に対し,より男性ファンを惹きつける要素を持っていたことは否定できないだろう。そしてこれが,別の問題となって倉木を苦しめることになる。すなわち,「アイドルたるものミュージシャンにはなれない」という偏狭な偏見である。"Love, Day After Tomorrow"のPVの倉木は,確かに魂が吸い取られるほど美しい。実際の彼女はもっといろいろな表情を持つが,あのPVでは,神々しき女神の姿で降臨する。それが,また別の問題を引き起こした。すなわち,「宇多田はミュージシャンだが倉木はアイドルだ」と。実際倉木は作詞だけだが,宇多田は作曲もこなし,その意味で音楽性が高いと思われていた。そのミステリアスな美しさは倉木を人気者にしたが,反面そのせいで音楽性を問われるという不条理を味わった。
それでは,倉木は本当にただのアイドルであったのか?
「アイドル(idol)」というのは「偶像」という意味であるから,イエス=キリストもカストロも長嶋茂雄もビートルズもアイドルである。しかし日本では「アイドル」という言葉に「軽薄なかわい子ちゃん」という意味が込められる。しかし,私はここで強調しておきたいが,倉木は決して軽薄なかわい子ちゃんではなく,前述したような真の意味でのアイドルである。
彼女は詞を書く。これは,まあ宇多田も浜崎も作詞はするので特別視もできないが,その歌詞を読めばそこには軽薄なポップアイドルの姿はない。彼女の詞はシリアスで時にはヘヴィであり,時にはカリスマ的に聴くものを扇動する。かわいいかわいいといわれながらも,彼女には実に多くの女性ファンがいることはそれを証明している。それは,あくまでも彼女のオリジナリティの所作である。宇多田とは何の関係もない。宇多田は宇多田ですばらしい。しかし,倉木は全く別のところで勝るとも劣らずすばらしい。なぜ,双方のファンはそれを認め合わず,堕落した2ちゃんねらーはいまだに「宇多田=倉木」のテーゼにしがみつくのであろうか?