1.はじめに
倉木麻衣とはいったい何者であろうか?
歌手,アイドル,作詞家,大学生(2004年現在)…さまざまな肩書きが存在する。しかし,常に聴衆に最高の音楽を提供し続け,私生活でもその学業と音楽活動の見事な両立は大きな尊敬を勝ち得ている。しかし,私はここで現在多くの倉木ファンが知っているような形での彼女を語ることはできない。なぜなら,「ごあいさつ」でも何度も述べたように,私は日本における音楽シーンの知識がほとんどないからだ。いや,昔はあった。30年近く前,アニメや特撮ヒーロー番組の主題歌に夢中の小学生に過ぎなかった私は,中学1年生のとき,音楽人生の第1次転換点を迎える。山口百恵との出会いである。
これから倉木麻衣のことを語るに当たって,基本的な事実として私の音楽的なルーツは確認しておきたい。そのため,ここで少し時間をいただいて,私の音楽人生の変転について述べさせていただく。
*私の音楽的変遷
「菩薩」とさえ呼ばれ,「時代と寝た女」とさえ言われた山口百恵は,しかしデビュー当時は同年代の森昌子や桜田淳子の陰に隠れ,まったく目立つ存在ではなかった。声量はあったものの声の音域は狭く,当時の中学校の音楽の先生が「この子は歌手としては大成しない」と言われていたことを思い出す。性格的にも同系列の音楽性を持つ桜田淳子が天性の「天真爛漫さ」を武器に売り出していたのに対し,山口百恵は(家庭環境にも恵まれていなかったが),どこか陰がある危うさがあった。売る側もそれは承知の上であったのだろう。デビュー曲の「としごろ」こそ,桜田と同系の天真爛漫アイドルソングであったが,次の「青い果実」「禁じられた遊び」「ひと夏の経験」と,いわゆる"処女喪失ソング"とも言われる危うい路線が続き,それが成功し,彼女はアイドルとして認知されるようになる。この動きは一定の評価を受けながらもやがてジリ貧となり,彼女はアイドル歌手としては終焉のときを迎えた。しかし,彼女は宇崎竜童=阿木燿子コンビと出会い息を吹き返す。「横須賀ストーリー」における彼女の凄みの聞いた歌唱は,もはやかつてのアイドルのそれではなく,やがて彼女は日本を代表するシンガーとしての地位を確立していく。ちなみに「イミテイション・ゴールド」はこの時期の作品である。
しかし,私は「本格的シンガー」としての山口百恵にそれほどの興味を惹かれなくなった。それは他にもっと興味深い音楽を見つけたからである。
昭和40年-50年代当時の中高生にとっての必須アイテムは,なんといってもラジオの深夜放送であった。多くのパーソナリティが日本の夜を占拠し,中高生は夜が白むまで「トランジスタラジオ」に耳をそばだてたものである。そしてそこから流れてきたのが洋楽であった。私もちょうどそんな時代に生まれ,中学2年の頃から洋楽を聴くようになった。そして,私は山口百恵を「卒業」した。やがて,「ビートルズ研究家」を自称するようになる私であるが,しかし,最初に聞いた洋楽は以外にもフレンチポップスであった。ダニエル=ビダルというフランス人女性アイドル歌手の「私はシャンソン」というレコードが私が最初に買った洋楽のレコードであった。
そして,その耳珍しい音楽は私の心をとりこにし,その後私はまったく日本の音楽というものを聴かなくなった。当時はラジオのヒットチャートをにぎわす洋楽を手当たり次第に聴いていたものだ。
そんな私に第2の転機が訪れた。あるときFMを聴いていた私の耳に聴き慣れないリズムと心を揺さぶるようなメロディが流れてきた。ポール=マッカートニーとウィングスの「ジェット」は,その後の私の運命を変える一曲となった。やがて,私は彼がかつて存在したビートルズという偉大なグループの中心メンバーであったことを知り,ビートルズと60年代そして70年代のロックにのめりこんでいくこととなった。
80年代からはクラッシック音楽もよく聴いた。一時オーディオに懲り,百万円以上もするセットを集めて悦に入っていた。しかし,80年代半ばの「LIVE AID」(英米のスーパースターたちによるアフリカ飢餓救援活動)の頃を境に,ビートルズ以外の音楽というものをあまり聴かなくなってきた。 その後ビートルズは私にとって「研究対象」にもなってきたが,結婚し子どもができ,音楽を楽しむ環境が整わなくなってきたこともあり,次第に熱狂的に音楽を愛することはなくなっていった。
そんな沈滞し切った2004年1月,私は倉木麻衣に出会ったのである。