この二つの論点を総合して考えると,私には次のような「紅白像」が見えてくる。
すなわち,
昔から倉木のことをよく知っていた年配のファンやコアなファンの方は「紅白」というものに非常に大きな思い入れがあり,(紅白に出場することが歌手の勲章という,現在でも演歌歌手にはよく見られるような感覚)始まる前からかなり過大な期待を持って待ち構えていた。ファン歴が長ければ長いほど,今までの「歴史」が頭の中をよぎったことであろう。
ところで,紅白当時の倉木は何だかいつもと少し違った。髪はすでに1年位前から「マイケーヘア」と呼ばれた変形ポニーテイルををやめていたが,顔の感じも,カメラの具合か何だかいつもよりずいぶん丸顔に見えた。衣装も見慣れたノースリーブではなく(寒いから当たり前だが)セーターにコート姿であった。要するに彼女のことをよく知っているファンならそれだけ「あれ?」という感じを抱いたのではないか。
つまり,長年のファンにとっては,紅白歌合戦で見慣れたものとは顔かたちもヘアスタイルも服装も違う倉木が出てきて,「ふつう」に歌ったものだから,「あれ?なんか変だな?」・・・「今ひとつだな」という印象を持ったのではないか。倉木は倉木であったのに。
そこには昔から愛し続けている倉木に対する「父親的」な愛情があり,発表会を迎えた愛娘に対し「ほら,お前ならもっと出来るはずだ。がんばれ」と,叱咤激励する気持ちが見られる。そのため,その年をときめくSMAPなどに比べれば今ひとつ地味であった倉木に対しては愛情ゆえの不満を感じた。