前置きが長くなったが,それでは倉木の場合どうなのか。
一聴して分かることであるが,彼女の声は小さい。いや,大きな声が出せないというのではなく,ファルセットを多用するせいもあり「大きな声を出さない」のだ。彼女のささやくような歌唱法は,だからこそビング=クロスビーにまで連なる「正統派ポピュラー歌手」の系譜なのである。しかし,近年"歌姫"と呼ばれる日本人女性ポピュラー歌手の中にも,大声量で朗々と歌い上げるタイプの歌手がよく見受けられるようになった。彼女たちの声はよく通る。したがって「ライブで聴きやすい=歌がうまい」という評価を受けがちである。しかしそれはあくまでも個性の範疇であるので,倉木が大きな声を「出さない」ことが「歌が下手」ということには全くつながらないのは明らかである。彼女の歌(の言葉)は確かに聞き取りにくい。歌詞をメロディの中に無理やり押し込み,言葉のセンテンスが音楽のフレーズを超えてあふれ出す("delicious way"などその代表例)楽曲が多いので,その傾向は一層顕著になり,ヘッドフォンで聴いて初めて歌詞が聞き取れるといったことも珍しくはない。しかし,再度強調しておきたいのは,それは歌の上手・下手とは何の関係もない別次元の問題である。ピカソの絵画とモーツァルトの交響曲のどちらが優れているかを論ずるようなものだ。