たとえば,プロダクション・レコード会社側はなぜ"Love, Day After Tomorrow"のPVで倉木を椅子に座らせたのであろうか?その英語混じりの歌詞,体を左右に揺さぶりながら歌う仕草,そして椅子に座れば,それを見た誰もが,当時すでに伝説と化していた宇多田の"automatic"のPVを想起したことであろう。"Love, Day After Tomorrow"はミリオンヒットとなったものの,この製作者側の手法が以後彼女について回る「宇多田のパクり」という不幸を生んでしまった。
しかし,実際はどうなのか?何度も言うように,私は日本の音楽シーンに非常に疎いし,宇多田の曲もせいぜい片手くらいしか知らないからあくまでも一般論を述べたい。
現在ビートルズの音楽についてその音楽性に異議を唱える者はそうはいないだろう。彼らは「世界最高」の音楽を築いたものとして歴史に刻まれている。しかし,彼らの音楽を注意深く聴けば,そこには彼ら以前の50年代のR&BやR&Rのエッセンスが,見事に換骨奪胎して取り込まれていることに気が付く。つまり,彼らは偉大なる「パクり屋」だったのである。しかし,彼らはその前時代の音楽を見事に自分たちのものとして取り込み,強烈なオリジナリティを生み出してきた。すなわち,音楽にせよ文学にせよ美術にせよ,優れたアーティストは常に前代の天才を真似,その上に自分自身のアイデンティティを形成していき,新しいオリジナリティを創り上げてきたのである。
私は倉木に対しても同じことを考える。