「ベスト オブ ヒーロー」
今回倉木麻衣が作り上げた曲世界は,いわば“限定的”なものである。それは,多分にこの曲がテレビの学園ドラマの主題歌であるということに由来するのだろう。この曲を聴くときそのリスナーはどうしてもそのドラマ(TBS系列「ガチバカ!」)の最後のシーンを想起してしまう。そこには画面の上下でアニメのチアリーダーたちがエールを送る中,大人を,学校を,世間を困らせていた“ワルガキ”たちが一人のヒーローである教師のもとに見事に更生をとげ,卒業式を終えて新しい未来へ旅立っていく姿が描かれている。
これほど番組自身のラストシーンを先取りしたエンディング構成も珍しいが,(つまり,最初にタネが明かされたマジックをマジシャンがどのように演じるのかを見る思い,別のたとえをすれば倒叙推理小説=古畑任三郎シリーズのように最初に犯行の手順が示され,探偵がそれをどのように解き明かしていくかが主眼の推理小説のよう)番組のプロデューサーの日記にも書かれていたが,主題歌“発注”にあたって倉木側にドラマの内容についての説明がなされているということであるから,もちろんそれは当然のことである。
しかし,実は倉木がこれほど“注文どおり”の仕事をしたのは今回が初めてではないだろうか。
これまでも倉木は「名探偵コナン」シリーズやNHKドラマなどのかなりの数の“主題歌”を担当してきた。しかしそれらはすべて“イメージソング”にとどまり,直裁的な番組内容へのリンクは避けられていた。しかし今回はかなり感触が違う。かつてのアニメや特撮ものの主題歌のように直接主人公の名前を連呼するような野暮さはないものの,ドラマを見ているものならばこの歌が流れてくると同時に上述したドラマのラストシーンが思い起こされ,“ベスト オブ ヒーロー”として,高橋克典扮する権藤鉄太先生のイメージが浮かんでくることだろう。それはそれで悪いことではない。優れたテレビ番組の主題歌はその曲の価値だけでクラッシックとして永い生命を保つ。ただそのとき常に不安として付きまとうのが,曲の評判がある程度番組の評判とリンクしてしまうということだ。聞くところによると「ガチバカ!」の視聴率はあまり高くないらしい。ドラマの人気と主題歌の人気にはかなりの割合で相関関係があるために,この点は気にかかるところでもある。
こう書いてくると,筆者はこの曲に対して否定的な見解を持っていると思われるかもしれないが,決してそうではない。この曲自体は「Stand Up」「Feel fine!」に並ぶ徳永暁人の“傑作”と言ってよいレベルで,“陳腐”という批判を受けることがあるかもしれないが,破綻のないメロディ構成で,聴く者に予定調和的な快感を与え,編曲にもドラマ主題歌特有のスピード感がよく表現されている。それに応える倉木の歌唱も,ビブラートに多少の人工臭が付きまとうものの,逆に無理して“ドラマ”を作ろうとせず,歌詞のとおり自然体であるがままの自分として歌い上げられている。現在の倉木としては90点,倉木のキャリア全体を通しても70点はつけることができる佳曲ではないだろうか。
ただ,“ドラマ主題歌”ということに関わりすぎると,この曲の価値もドラマ放映終了とともに薄らいでいく。この曲に普遍的な価値はあるのだろうか。
この曲を何度か聞いていくうちに,私の心の中にある一幅の絵画が浮かんできた。
レオナルド=ダ=ヴィンチの傑作「最後の晩餐」である。
この作品のテーマは明日ユダヤの官憲に逮捕されるという夜,弟子(使徒)たちを“最後の晩餐”に招き,イエスが「この中に私を裏切るものがいる」と,ユダの裏切りを暴くシーンであるが,注目すべきはその描写方法である。
この裏切り暴露の瞬間,登場人物たちの大半の視線はイエスに注がれる。
この絵の構図は非常に奇妙である。晩餐のテーブルは長方形の部屋の手間に置かれ,人物たちの後ろには広いスペースがある。普通こんなところにテーブルをセッティングはしない。ならば,レオナルドの意図することろは何なのか。
この部屋の壁と天井に注目していただきたい。天井の桟や壁の扉(?)が作る斜線に物差しでも当ててみて欲しい。
ルネサンス人がこよなく愛した遠近法に幾何学遠近法がある。
本来平行である壁や窓などの線を故意に傾け,ある一点(ないし数点)に集中・交差させ消滅させる。こうやってすべての絵画世界を一点(これを消点"Vanishing Point"という)に集中させることによって二次元のキャンバス(この場合は壁面)に無限の奥行きを表現する手法である。
さて,それではこの絵の消点はどこにあるのか。実はすべての直線はイエスの顔へと集中しているのである。すべてがイエス(神)から始まりイエス(神)に終わる。レオナルドはこの心象世界を平面の中に表現するために,あえてテーブルを奇妙な場所にセッティングしたのであった。
そして,この絵が「ベスト オブ ヒーロー」を読み解くヒントとなる。
ドラマをイメージするまでもなく,この曲の語り手は倉木としては珍しく「僕達」という複数形になっている。そして,その「僕達」迷いに満ちた衆生は「もどることも進むことも出来ず」にいる八方ふさがりの困難の中にいる。しかし,そこに現れたイエスであり菩薩でもあるような“僕達のベスト オブ ヒーロー”が,「負ける事が終わりじゃない あきらめたらそこでthe end」というありがたい言葉でもって,迷える「僕達」を彼岸に導く…。このとき,「僕達」の視線はすべてこの“ヒーロー”一点に注がれ,この群集劇のカタルシスに満ちた大団円を予言する。あたかもレオナルドがサンタ・マリア・デレ・グラツィエの壁面に描いたように…。
ここにこの曲の無限の普遍性がある。それはローマン・カトリックでもよい,大乗仏教でもよい,様々な宗教がもつ衆生救済の普遍的な力を持って,われわれを指導するオールマイティなリーダーがいる。われらはそのリーダーのもと,困難に立ち向かい,自己実現を図る。そこに見えるリーダーの姿は決して宗教的指導者でなくともよい。あるものはゴンタ先生をイメージし,あるものは友人や恋人など自らのユニークな存在を思い浮かべるであろうし,中には(そしてこれを読んでいる読者の多くは)歌唱している倉木麻衣本人の姿を投影するものもいるだろう。
この曲のシングルCDのジャケットに使われている2枚の写真にはそれを象徴的に感じることが出来る。すなわち,“ヒーロー”に出会う前の気弱な迷いに満ちた自分と,解脱・昇天後の自信に満ち溢れた自分である。
この曲はただ倉木お得意の「人生の応援歌」と言うだけではなく,ドラマ主題歌の力を借りながらも,このような大きな精神世界を具象化したところに注目すべき意義があると感じる。
そのため,歌詞は時に宗教的。「山よりも高い勇気 海よりも深い愛」という表現にはキリスト教のアガペーや仏の慈悲を感じる。また,「さくら誇る」という表現はドラマのエンディングともあいまって,この曲に「卒業歌」としての位置づけを与え,別の意味での普遍的な価値を持たせている。
ほかに注目すべき点としては,いつものMainglish((c)ちゃぶー)がある。
“ベスト オブ ヒーロー”という言葉はもちろん英語としては成り立たない。正しく表現するならば“The best of the heroes”か“The best hero”。ただどちらも言葉の音数が合わないので,このMainglishを使用したのであろう。
余談ではあるが,この曲を聴いて最初に強くイメージしたのがブルース=スプリングスティーンの「明日なき暴走」(Born To Run)であった。この曲の躍動するドライブ感の裏にはこの名曲のイメージがあったのではないか?以前にも倉木=徳永コンビは「明日なき暴走」のパロディを行ったことがあり,今回もその延長線上にある遊び心を感じてほほえましい。
「Cuz you'll know that you're right」
一聴して“Rescue Me”のようなYoko BlackstoneテイストをもったR&B曲。ヒット性は感じられないが,初期の頃の倉木のc/w曲によくあったタイプの曲であるため,昔からのファンはノスタルジーを感じるだろう。
倉木はしばしばタイトル曲(いわゆる“A面”)にはポップなヒット性のある曲を,c/w(B面)には,実験的な曲,ヒットを度外視して自分好みの曲を据える傾向にあった。ここしばらくの間,逆にc/w曲の方がA面の曲を食ってしまうような傾向があったが,今回のこの曲はc/w曲としての使命をよく果たしている。
いつもながらR&Bを歌うときの倉木は,“少女”よりも“女”になり,エロチックなニュアンスをかもし出しながら独特の世界を描き出す。