「山口百恵」のことを語るとき,私はどうしてもある特別な感情を抱かざるを得ない。「ごあいさつ」で述べたように,私はかつて中学時代山口百恵にのめりこんでいた。いや,むしろまだアイドルとしては二流であった「としごろ」の山口に注目し,その後の大活躍を予言したと自負している。その「かつて愛した女性」の曲を,「現在愛してやまない女性」が歌うという。これほど感無量のことはない。
ともあれ,この曲は実は「倉木麻衣」の曲ではない。倉木はB'zの松本孝弘 (TAK MATSUMOTO)のソロ作品に「ボーカル」として起用されたに過ぎない。したがって,ここにおける倉木は松本の道具として彼の指示とおりに歌うことが要求される。しかし,倉木は「道具」を越えた。
一聴しただけでは,ここに倉木の個性はない。
曲は,松本のゲゲゲの鬼太郎が出てきそうな不気味なギターのイントロで始まり,倉木のボーカルをフィーチャーしながら,ハードなロックナンバーとして激しい展開を見せる。ここではいつもの「倉木節」は影を潜める。ファルセットは使われない。あえて独特の透明感あふれるクリスタルボイスを封印し,地声に近い中低音の迫力で,淡々としかし力を込めて歌われる。私はこの歌を裏声を使うことなく,最後まで倉木と同じキーで一緒に歌えるくらいだ。
私は一聴して,そこに「山口百恵」を見た。そして,それこそが松本の狙いであったのではないかと思う。
しかし,当然倉木は山口百恵のモノマネをしたわけではない。百恵の影を感じた次の瞬間,その後ろから突然「倉木麻衣」が,ミルメッド通りの公園の白ウサギ然として突然顔を出す。
倉木の線は,百恵のそれに比べれば細い。百恵の歌が大陸をゆうゆうと横切って流れる揚子江なら,倉木はアルプスを駆け流れる鮮烈極まりない清流か。
倉木に百恵ほどの「野太さ」はない。しかし,百恵にはなかった天まで突き抜けていくような「高さ」を持っている。
大地に根を下ろしたロマネスクの百恵に対して,倉木はゴシック教会のように天を摩する。百恵が地母神ガイアの姿で湧き上がれば,倉木はアフロディテに似て天上から降臨する。
私の中で,この新旧の「恋人」が織り成す錦絵模様を見つめるのは,まさに至福の時間であった。
この意味において,今回の松本の意図は十二分に達成されたのではないか。あえて,百恵と声質の似たところのある倉木を起用し,しかし,そこから百恵とは異質の新鮮な感動を引き出す。
言葉はいらない。この曲だけ聴いていたい。