「ビートルズ音楽論」


7 第七期 ジョン=レノン死後の時代 (1980年〜90年)

(1)ジョン=レノン

 ジョンの死後,悲嘆に暮れていた洋子であったが,何とか立ち直ると,ジョンの未発表曲を集めて,『ミルク・アンド・ハニー(Milk And Honey)』(1983)『メンローヴ・アヴェニュー(Menlove Avenue)』(1976)の2枚のアルバムを発表し,前者からは印象的な『グロウ・オールド・ウィズ・ミー(Glow Old With Me)』のヒットが生まれた。

(2)ポール=マッカートニー

 ポールもまた,ジョンの死に最も大きな悲しみを受けた一人であった。その悲しみの中で,彼は,1981年国連の要請を受けて「カンボジア難民救済コンサート」を開き,1982年,アルバム『タッグ・オフ・ウォー(Tug Of WAr)』において,プロデューサーとして久々にジョージ=マーティンを迎えた。彼はここで,アメリカを代表する盲目の天才黒人歌手,スティーヴィー=ワンダーをデュエット・パートナーに迎え,人種差別の愚かさを歌った『エボニー・アンド・アイヴォリー(Ebony And Ivory)』を大ヒットさせた。彼はこのアルバムの中で,ジョンに対する気持ちを『ヒア・トゥデイ(Here Today)』という『イエスタディ』を彷彿とさせる名曲を歌っている。

 その後は(まだ『スリラー』発表前で,あれほどのウルトラ・スーパースターにはなっていなかった)マイケル=ジャクソンと組んで,『セイ・セイ・セイ(Say Say Say)』(1984)(アルバム『パイプス・オヴ・ピース(Pipes Of Peace)』より)をヒットさせるなど,あいかわらずチャートの常連であり続けた。それ以後も,レコーディング活動は間が空くようになったが,2度にわたるワールド・ツァーを成功させ,(1990年には,ついに日本上陸を果たした。)また,故郷リヴァプール市の依頼を受け『リヴァプール・オラトリオ』を作曲するなど,幅広い音楽活動を行っている。

(3)ジョージ=ハリスン

 ジョージは80年代初頭,半ば音楽活動から身を引いたような状態であったが,1987年,アルバム『クラウド・ナイン(Cloud Nine)』から『セット・オン・ユー(I Got My Mind Set On You)』を大ヒットさせると,活動を再開し,90年代に入るとボブ=ディランやロイ=オービスンらと,架空のバンド“トラヴェリング・ウィルベリーズ”を結成し,アルバムを発表するなどの精力的な活動を続けている。

(4)リンゴ=スター

 リンゴは80年代には音楽的ヒットに恵まれず,ビートルズの解散をめぐる裁判のお陰で,かつての印税を手にすることもできず,一時は金に困った時期があり,またアルコール中毒にも苦しんだが,90年代になると気の合う仲間たちを集めて“オールスター・バンド”を結成し,2度の来日公演を果たした。