「ビートルズ音楽論」 6 第六期 解散後のソロ活動の時代 (1970年〜80年) (1)ジョン=レノン ジョンはビートルズ解散以前から,小野洋子とともに『未完成作品第1番/第2番』などの前衛音楽作品集を発表していたが,事実上のソロ処女作アルバムは『ジョンの魂(Plastic Ono Band)』(1970年)である。ビートルズ解散の前後,ジョンは激しい精神疾患に悩んでいたが,アメリカの精神科医アーサー=ヤノフ博士の“プライム・スクリーム(原初の叫び)”療法を知り,その治療を受けることになった。この治療は,患者とのカウンセリングの中で,医者が患者のさまざまな過去のできごとを聞き出し,その中で,患者自身さえも忘れていた,彼の精神疾患の真の原因になった“事件”を思い出させる。そのおぞましい“事件”を思い出したとき,患者は恐怖から激しい叫び声を発するが,それによって,カタルシス(浄化)が与えられるというものである。そして,この治療の中から彼の過去の一切の清算として制作されたのが,この『ジョンの魂』であった。その歌詞はナイフのように研ぎ澄まされ,音楽は痛ましいほどに一切の贅肉をこそぎ落としている。聞くものすべてに鳥肌立たせるこのアルバムは,ジョンの過去への決別宣言でもあった。そして,それを自分に言い聞かせるように,『神』において,彼は今まで自分が信じてきたもの,エルヴィス=プレスリーやボブ=ディランから,ビートルズさえ否定してゆくのである。 70年代のジョンは,洋子とともに一貫して平和運動にかかわり,一種の“平和インターナショナル・ソング”を作り続けてきた。『平和を我らに(Give Peace A Chance)』(1969)は,反戦運動の合言葉になり,『イマジン(Imagine)』(1971)は平和を求める民衆の聖歌となった。(アトランタ・オリンピックの閉会式でスティーヴィー=ワンダーがこの曲を歌ったことは記憶に新しい。)しかし,『マインド・ゲームズ』(1973)を最後に,ジョンと洋子の間の亀裂が始まり,“実験的別居”が始まると,アメリカ西海岸に移ったジョンの生活は荒れ,酒びたりの日々が始まった。しかし,その中で制作された“ポップ”に戻ったアルバム『心の壁 愛の橋(Walls And Bridges)』(1974)は佳曲に満ち,当時アブラがのり切っていたエルトン=ジョンのサポートを受けた『真夜中をつっ走れ(Whatever Get You Through The Night)』は,ソロ初の全米ナンバー1ヒットとなったのである。しかし,彼が数え切れないほどの影響を受けた“ナツメロ・ロック集”『ロックン・ロール』(1975)の発表後,アップル=EMIとのレコーディング契約が終了し,洋子との間に待望の息子ショーンが生まれると,彼は現役を引退し,いわゆる“主夫”生活に入り,子育てに専念することとなった。しかし,1980年,ショーンが5歳になったのをきっかけに音楽活動を再開し,洋子と共同で,アルバム『ダブル・ファンタジー(Double Fantasy)』発表し,シングル『スターティング・オーヴァー(Just Like Starting Over)』の大ヒットを生み出した。しかしちょうどその“スタート”のとき,1980年12月8日,ニューヨークの自宅アパート前で,ハワイの元ガードマン,マーク=チャップマンによって射殺されたのである。 (2)ポール=マッカートニー 解散後の4人の中で最も活発な音楽活動を展開しているのは,間違いなくポールである。彼も,ビートルズとの決別を示すかのように,自らの初のソロアルバム『マッカートニー(McCartney)』(1970)を,ビートルズの『レット・イット・ビー』にぶつけて発売しようとした。しかし,実際にはこのアルバムは「ゲット・バック・セッション」の中でお蔵入りになった『ジャンク(Junk)』や『テディ・ボーイ(Teddy Boy) 』を含み,“ホワイト・アルバムの第5面”のような作品であった。その後もポールは,毎年のようにシングル,アルバムを発表し続け,常にヒットチャートの上位をにぎわしていた。しかし,『アナザー・デイ(Another Day)』(1971)や,『マイ・ラヴ(My Love)』(1973)・『007/死ぬのは奴等だ(Live And Let Die)』(1973)などの強力なシングルに比べて,『ラム』や,新たに妻のリンダやギタリストのデニー=レインなどを加えて結成された自らのバンド“ウィングズ”を率いて制作した『ワイルド・ライフ』などのアルバムは,すばらしい素材を集めながらも,未完成な印象を免れない。そのため,特異な活動を続けるジョンに比べて,評判は今一つであった。しかし,1973年の『バンド・オン・ザ・ラン(Band On The Run)』は,そんな彼の起死回生作となった。タイトル曲と『ジェット(Jet)』の2大ヒット曲を含むこのアルバムは,ナイジェリアのラゴスを中心にレコーディングされた。しかし,その時のトラブルから,メンバーの脱退が相次ぎ,結局自分でドラムをたたかなければならないはめに陥った,いわくつきの作品である。最も上質のビートルズのアルバムにも比すことができるこのアルバムにより,ポールは自信を回復し,次々と『ヴィーナス・アンド・マース』(1975),『ウィングズ・アット・ザ・スピード・オヴ・サウンド』(1976)のヒットアルバムを発表し,その集大成として,1976年かつてのビートルズのメンバーとして,初めての大規模な世界ツアーを挙行した。この模様は,現在,ライブアルバム『ウィングズ・オーヴァー・アメリカ(Wings Over America)』(1976)として聞くことができるが,『イエスタディ』『ブラックバード』『レディ・マドンナ』などのビートルズ・ナンバーを含む,この“オーヴァー・アメリカ・ツァー”を聞くと,やっと居場所を見つけたポールが,演奏活動を心から楽しんでいる様子がうかがえる。その後も1970年代を通して彼の活躍は続き,1977年には『夢の旅人(Mull Of Kintyre) 』を(イギリスで)『シー・ラヴズ・ユー』を上回る,史上最高のヒット曲とした。しかし,その後しばらくは低迷の時期が続いた。 (3)ジョージ=ハリスン ビートルズ解散と同時に,ジョージの才能は一気に花開いた。LPでは3枚組になる大作『オール・シングズ・マスト・パス(All Things Must PAss)』(1970,直訳すれば“諸行無常”の意)は,それまでジョンとポールの蔭に隠れていた彼の才能は一気に吹き出し,シングルカットされた『マイ・スウィート・ロード(My Sweet Lord)』は解散後のビートルズのメンバーとして,初めての大ヒットを記録した。この曲は残念ながら,アメリカの黒人女性グループ,シフォンズの『ヒーズ・ソー・ファイン』に酷似しているということで訴えられ,有罪判決をいただいてしまうが,それでも,この曲の大ヒットは,ソロ・アーティスト,ジョージ=ハリスンの名を世に示した。また,ボブ=ディラン,エリック=クラプトンらの人脈も多彩で,1971年には,そういった友人たちとともに,飢餓で苦しむバングラデッシュのためのコンサートを開催し,また1974年には,自らのレーベル「ダーク・ホース」を設立するなど,積極的な音楽活動を展開した。 (4)リンゴ=スター リンゴはビートルズ解散とともに,肩の力を抜いて,大好きなカントリー・ミュージックのアルバムを発表するなど悠々自適の生活を始めるとともに,映画俳優としてのキャリアを発展させて行った。しかし,決してロック魂を忘れたわけではなく,1971年には『明日への願い(It Don't Come Easy)』の大ヒットを生んだ。また,1973年にはジョン・ポール・ジョージの全面協力を得て,アルバム『リンゴ(Ringo)』発表し,『ユーアー・シックスティーン(You Are Sixteen) 』をリバイバル・ヒットさせ,1974年にはアルバム『グッドナイト・ウィーン(Goodnight Vienna)』から,かつてのプラターズの名曲『オンリー・ユー(Only You)』をヒットさせた。 |