「ビートルズ音楽論」 5 第五期 “完成,そして崩壊の時代” −シングル『レディ・マドンナ』からアルバム『アビー・ロード』の時代 (1968年〜70年) この時期に発表されたシングル及びアルバム
(1)アップル 1968年2月,ビートルズの4人はビーチボーイズのマイク=ラヴや女優のミア=ファーロウらとともに,瞑想修業のため,インドのマハリシのもとへ向かった。しかし,この修業は彼らの期待を大いに裏切り,マハリシの俗物性を見限った彼らは,最終的にマハリシのもとを去り,スタジオへと戻って行った。(しかし,ジョージはインド人シタール奏者,ラヴィ=シャンカールに師事するなど,さらにインド音楽への傾倒を続け,この時期に発表された『ジ・インナー・ライト』もまた,まったくのインド音楽であった。) 新たな展開を開始した彼らにとって,最初の仕事は,彼ら自身の会社“アップル”の設立であった。アップルは音楽だけでなくあらゆる芸術を志す野心家に門戸をひらき,その活動を援助するという崇高な目的を掲げたが,結局,彼ら自身の音楽以外にはほとんど成果をあげなかった。そして,そのアップルの最初の仕事として発表されたのがシングル『ヘイ・ジュード/レヴォリューション』,アルバム『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』であった。 この両者に言えることは,一種の“原点回帰”であった。『リヴォルヴァー』『サージェント・ペパー』と,電子楽器や最新の技術を駆使して“前衛的”な音楽制作に挑戦し続けていた彼らが,ここにおいて“シンプルではあるが美しい曲・聴く者に無条件で感動を与える曲”を創るという,音楽の原点に立ち戻った。『ヘイ・ジュード』は,ポールのピアノ弾き語りから始まる,なんら奇をてらったところのない“普通の”バラードナンバーであるが,そのメロディの美しさはビートルズ・ミュージックの頂点を極め,実際に発売直後に全世界で1000万枚のシングルレコードを売り上げるという,彼ら最大のヒット曲となった。 『ヘイ・ジュード』は,ポールが,両親の離婚問題で揺れるジョンの息子ジュリアンに贈ったと言われる曲であるが,そこには中期ビートルズに特徴的に見られた,凝りに凝った電子楽器の使用やテープの逆回転などの絢爛豪華な“音楽絵巻”は影をひそめ,シンプルでストレートなバラードに仕上がっている。B面となったジョンの『レヴォリューション』も,ディストーションの効いたエレクトリックギターをフューチャーしたストレートなロックナンバーで,(歌詞の面は別にしても)『プリーズ・プリーズ・ミー』の時代へ回帰したような印象を受ける。そして,その傾向は次のアルバム『ザ・ビートルズ』にも引き継がれて行く。 『ザ・ビートルズ』は,その真っ白いアルバムジャケットから通称『ホワイト・アルバム』と呼ばれるが,シンプルでストレートな佳曲に満ちあふれたアルバムである。しかしながら,シンプルな中にも曲目構成はバラエティに富み,『バック・イン・ザ・USSR』『バースデイ』(ポール)はストレートなロックナンバー,『オブラディ・オブラダ』(ポール)はカリブ海の陽気な音楽カリプソ,『ロッキー・ラックーン』(ポール)はカントリーミュージック,『ヤー・ブルース』(ジョン)はブルース,『レヴォリューション#9』(ジョン)は完全なミュージック・コンクレートなど,特にポールを中心に百花繚乱の名曲集であった。しかしその裏で,ビートルズの個々の音楽性は完全に分裂し,そこに聞こえてくる曲はもはや“ビートルズの曲”ではなく,誰の耳にもジョンの,ポールの,ジョージの曲であると分かったのである。ポールはしばしばリンゴを追いやり,自らがドラムセットの前に陣取り,それまでジョンとポールの蔭に隠れて才能を発揮させることのできなかったジョージは,自らのリーダーシップを誇示するために,自らの曲『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』においては,リードギタリストにエリック=クラプトンを指名している。さらにこのアルバム全体を通して見えるものは,ブライアン=エプスタインの死後,舵取りを失い,新たな方向性を模索して苦悩するビートルズの姿である。このアルバムはロックアルバムとしては珍しい2枚組のLPとなったが,実際には『ワイルド・ハニー・パイ』や『ホワイ・ドント・ウィー・ドゥ・イット・イン・ザ・ロード』のように,素材だけを提示した未完成な曲も多く,8分以上に及ぶ無機的音素材集『レヴォリューション#9』に至っては,いかに芸術期実験とはいっても,この曲が収録されたこと自体,ジョージ=マーティンのリーダーシップも及ばなくなった,迷走するビートルズの姿をかいま見させる。 (2)ゲット・バック このようなビートルズの分裂傾向に最も危機感を抱いていたのはポールであった。“バンド”というものを重視し,ファンに対するサービス精神旺盛な彼は,あくまでもライブ活動を中心としたバンド活動にこだわり,メンバーに対して,さまざまな形での公演活動の再開を提案したが,混乱と喧騒を嫌った他の3人にことごとく拒否され,ようやく「新曲のレコーディング風景を映画に撮影する」と言うコンセプトのみが実施に移された。こうして始まったのが,いわゆる「ゲット・バック・セッション」である。この模様は後に,映画『レット・イット・ビー』として発表されたが,そこで彼ら(特にポール)が目指したものは,“オーバーダビングを廃し,デビュー当時のライブバンドの精神に立ち戻って,シンプルかつストレートなロック=アンド=ロールを演奏する”という原点回帰であった。そのため,音が薄くなるのを恐れた彼らは,ハンブルク時代以来の友人である黒人キーボードプレーヤー,ビリー=プレストンをゲストに迎え,だだっ広いトゥイッケンハイム映画スタジオへこもったのである。そしてここでは,彼らのルーツとなった,50年代のロック=アンド=ロール・ナンバーやデビュー以前に書かれたレノン=マッカートニーの曲『ワン・アフター・909』などが楽しげに演奏されるとともに,『レット・イット・ビー』や『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』などの新曲がレコーディングされた。しかし,普段のアビー・ロード・スタジオとはまるっきり環境の違う映画スタジオにおいて,彼らのストレスは蓄積し,ささいなことで衝突が繰り返されるようになった。さらに,それに輪をかけたのが,小野洋子の存在であった。 (3)小野洋子 小野洋子はジョンと愛人関係に入ると同時に,それまでのメンバー間の不文律を破り,公然とレコーディングスタジオ内に入り込み,ジョンのそばを片時も離れないようになった。しかし,彼女の存在は他の3人にさらに大きなストレスを与え,このような雰囲気の中で,結局この「ゲット・バック・セッション」のレコーディングテープと映画フィルムは,しばらくお蔵入りしてしまうことになった。なお,このテープはやがて,アメリカ人の辣腕音楽プロデューサー,フィル=スペクターの手によってアルバム『レット・イット・ビー』という形で日の目を見るが,スペクターは“ウォール・オブ・サウンド”と称される,豪華なオーケストレーションを駆使するプロデューサーとして知られ,そこにある音楽は“原点に返る”というポールの意図とまったく反した“絢爛豪華な”ものになってしまったのである。ちなみにポールは,このとき自作曲『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』につけ加えられたオーケストレーションとコーラスに激怒し,それを支持した他の3人との間のトラブルが,ビートルズ分裂の一因となったとも言われる。なお,小野洋子はその後もジョンに有形無形の影響を与え続け,彼女との愛に熱中したジョンは,ビートルズに対する関心を失い,それが解散の一因となったことはいがめない。 (4)レット・イット・ビー 「ゲット・バック・セッション」は決して彼らの意図通りの結果を生み出さなかったが,しかし,彼らの音楽魔術は,そのような混乱の中からも珠玉の名曲の数々を生み出した。ビートルズのメンバーにとってはつらい経験となったこのセッションではあったが,それがそのまま彼らの音楽的衰退につながったわけではない。特に映画『レット・イット・ビー』の最後を飾る,ロンドン,サヴィル・ロウ(ここは洋服屋が多い地域で,日本語の“背広”という語は,この“サヴィル・ロウ”の音訳であると言う説もある)にあるアップルの本社ビル屋上で行われた,いわゆる「ルーフ・トップ・セッション」は,ビートルズのライブ・パフォーマンスの最後の輝きとなった。ここで演奏されたポールの『ゲット・バック』と,ジョンの『ドント・レット・ミー・ダウン』は,やがてシングルとして発売され大ヒットを記録するが,その引き締まった演奏と,豊かな音楽性からは“解散間近なバンド”というイメージはみじんも感じられない。アルバムの発売に1年も先立って発表されたこのシングル(2曲)は,シンプルなロックナンバーで,『ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー/ペニー・レイン』以来の,ジョンとポールのA・B面が拮抗する名作であった。ここにおいては,当初ポールが意図した,“原点回帰”が見事に成功し,ビートルズはやはり優れたロック・アンド・ロール・バンドであったのだということを再認識させてくれる。しかし,この2曲の持つ意味はただそれだけではなかった。ビートルズは,オーバーダビングを廃して,シンプルかつストレートなロックに回帰する上で,ひとつの大きな問題に直面していた。それは,いくらなんでも60年代末においては,ギター2本とベース,それにドラムスだけではレコードは制作できないということであった。特に,『サージェント・ペパー』のような絢爛豪華なロック絵巻を創造した彼らにとって,もう一度『抱きしめたい』をやることは十分無理があった。そのため,ゲット・バック・セッションでは,音の薄さを補うためにセッション・ミュージシャンとして,ビートルズのハンブルク時代以来の古い友人,黒人キーボードプレーヤーのビリー=プレストンが,レコーディングに参加することになったのである。そして“ザ・ビートルズ・ウィズ・ビリー=プレストン”とクレジットされたこの『ゲット・バック/ドント・レット・ミー・ダウン』は当然のごとく大ヒットしたが,プレストンのこの2曲におけるピアノ・ソロ,及び『レット・イット・ビー』のオルガン・ソロはビートルズの曲に新たな緊張感を与え,この時期のビートルズの音楽の幅を大いに広げることとなった。 前述したように「ゲット・バック・セッション」は,一旦ジョージ=マーティンによって『ゲット・バック』というアルバムに仕上げられる。このアルバムは,現在では一部のブートレグで聞くことしかできないが,当初ポールが企画したような,シンプルかつストレートな“疑似ライブ”アルバムであった。しかし,その出来に満足しなかった彼らは,それをお蔵入りにすると,新しいビジネスマネージャー,アラン=クラインは,そのレコーディングテープを,フィル=スペクターに手渡したのである。こうしてこのテープは,レコーディングから多くの紆余曲折を経て,(その後レコーディングされた『アビー・ロード』の発売に半年以上遅れて)アルバム『レット・イット・ビー』として陽の目を見ることとなった。 このアルバムにおいて,(評価はともあれ)未完成で放り出されたテープ群と必死に格闘したフィル=スペクターの努力は買わなければならないだろう。しかし,ここにおいて“オーバーダビングを廃し,シンプルかつストレートな疑似ライブを行う”という当初の意図は放棄され,スペクターの手によって,多くの装飾がなされた。最も論議を呼んだのは,作者のポールの意図に反して『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』につけ加えられた,大げさなストリングスとコーラスであったが,結果として,このアルバムは,ポール+ジョン=イーストマン対ジョン・ジョージ・リンゴ+アラン=クライン+フィル=スペクターの政治的対決を,そのまま音楽的対立に持ち込んだ格好となった。その結果,幻のアルバム『ゲット・バック』にあったポールの『テディ・ボーイ』ははずされ,替わりにジョンの『アクロス・ザ・ユニヴァース』が採用されるなど,全体に後者寄りのアルバムとなった。アルバム全体の雰囲気は,曲数が少ないだけ『ホワイト・アルバム』ほど散漫ではないが,『ディグ・イット』『マギー・メイ』などの即興的未完成素材の存在は,曲がりなりにも“疑似ライブ”的な雰囲気を残すことに効果があった。しかし,“ポール色”を極力薄めようとしたフィル=スペクターの努力にもかかわらず,このアルバムを通して最も光り輝くのは,ポールの『レット・イット・ビー』『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』『ゲット・バック』の3曲であろう。『レット・イット・ビー』は,ジョンが「ポールは,サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』のような曲を作りたがっていた」と言っているように,基本的にローマ=カトリックであるポールが,聖母マリア(Mother Mary)と,彼が14歳のときに乳ガンでなくなった母メアリーとを懸詞的に扱いながら,人間の無力さと神の偉大なる摂理を,ゴスペル調に高らかに歌いあげた名曲である。この曲においては,前述したようにビリー=プレストンのオルガン・ソロがいい味を出しているが,その崇高なまでの宗教的荘厳さのために,日本におけるビートルズの最大のヒット曲となった。『ワインディング・ロード』はポールの意図に反して仰々しいオーケストラがオーバーダビングされたが,やがて彼らの意志と関係なくアメリカでシングルカットされたこの曲は,大ヒットを記録した。『ゲット・バック』は例の“ルーフ・トップ・セッション”のラストナンバーとして演奏されたときのテープが(一部?)使用され,最後は,ジョンの「ありがとう。これでオーディションに受かったかな?」というジョークで幕を閉じるが,この部分は,当初のアルバム『ゲット・バック』の制作意図をかいま見させる部分である。しかし,驚くべきことは人間関係が極端に悪化していたセッションであったにもかかわらず,彼らの音楽には少しの破綻も見られないということである。確かに,未完成な素材も存在するものの,レコードデビュー以前に書かれた『ワン・アフター・909』の演奏は,『アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア』を彷彿とさせるスピード観を持っているし,『トゥ・オヴ・アス』は,(映画『レット・イット・ビー』では,一本のマイクを両側からはさんで歌うジョンとポールの姿が印象的であったが)ツアー中のビートルズの懐かしい姿を思い出させる。『アイヴ・ガッタ・フィーリング』は完璧なジョンとポールの共同作業が見られるし,『アクロス・ザ・ユニヴァース』には,後の『イマジン』や『マインド・ゲームス』の萌芽が見られる。このように不幸な生い立ちを持った『レット・イット・ビー』ではあったが,佳曲を集めた名アルバムと評価することができよう。 (5)アビー・ロード アルバム『ゲット・バック』が棚上げされている間に,ポールとジョージ=マーティンは他の3人を再びアビー・ロード・スタジオへ呼び集めた。こうして,彼らの最後のレコーディングとなる,アルバム『アビー・ロード』の制作が開始された。このアルバムは,しかし,ひとつの“奇跡”をもたらした。「ゲット・バック・セッション」で露見した4人の不協和音は,誰の目にも明らかになっていたのにもかかわらず,このアルバムは,ある意味では『サージェント・ペパー』をはるかに越える,ビートルズの最高傑作となったのである。 アルバムの冒頭を飾るジョンの『カム・トギャザー』は古いチャック=ベリーの『ユー・キャント・キャッチ・ミー』の形を借りながら,緊張感に満ちあふれた名曲となった。このアルバムは,また,ジョージ=マーティンの最高のレコーディングともなった。60年代末期におけるレコーディング技術の進歩には目覚ましいものがあったが,『カム・トゥギャザー』でポールのたたき出すベースの低音をハイファイ・システムで聞くとき,ステレオ・セットの前に座るどんな人間にも至福の時間がもたらされるのである。 『サムシング』はジョージが初めてシングルのA面を取った曲としても記憶されているが,解散直前にめきめきと作曲能力を高めて来た彼が,そのキャリアにおいて最高の瞬間に達した一曲である。『ヘイ・ジュード』や『イン・マイ・ライフ』などのレノン=マカートニーのバラード代表作(ということは世界ポピュラー音楽史上の最高傑作)と比べても一歩も後へ引くことのないこの曲は,『ヒア・カムス・ザ・サン』とともにジョージの代表作でもあり,ビートルズの,そしてポピュラー音楽史上の代表作ともなった。 『マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー』(ポール)は,当初「ゲット・バック・セッション」で制作された一曲であるが,不可思議なムードに満ちあふれ,ビートルズの曲と言うよりは,ポールのファースト・ソロ・アルバム『マッカートニー』に入っているほうがふさわしい曲のようにも思える。 ポールの『オー・ダーリン』は,ジョンに言わせれば「ポールにセンスがあったなら俺に歌わせていただろうに」と言うように,どちらかと言えば,レノン・テイストをもったオールド・ロックである。しかし何よりも,この曲におけるポールのボーカルを聞けば,彼の七色の声(『エリナ・リグビー』と同じ人物なのだ!)に驚かされるとともに,ボーカリストとしての彼の才能にあらためて脱帽するのみである。 『オクトパスズ・ガーデン』はリンゴの作品で,曲としては何の変哲もないポップスである。珊瑚礁のタコのお庭でたわむれる少年少女をテーマにしたところはいかにもリンゴらしいが,鬼気迫るような迫力を持つこのアルバムの中で,ほっとひと息つける空間を作っている。 『アイ・ウォント・ユー』(ジョン) "I want you. I want you so bad."の単純なフレーズを繰り返すこの曲は,『ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー』や『アクロス・ザ・ユニヴァース』の饒舌さの対極にある。しかし,この曲によって『アビー・ロード』の神性は一層のスポットライトを浴びる。言葉は少ないが,モーツァルトの音楽が,その楽譜上の音符の一つ一つが,他のものには決して取って代わられない絶対性を持つように,この曲は(かつてのLPの)A面最後の,確固たるアンカーとなる。 旧LPレコードA面の鬼気迫る迫力に対して,『ヒア・カムス・ザ・サン』から始まるB面は“ロックの芸術化”のひとつの完成した姿であった。『ビコーズ』では,『ジス・ボーイ』以来のジョン・ポール・ジョージの完璧なコーラスを聞くことができる。そして,圧巻のラストメドレーに突入するのである。 『ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー』に始まって,『ジ・エンド』に終わるこのメドレーは,それだけでアルバム1枚を構成するに足るだけの分量と大衆性,そして芸術性を持っている。それを惜し気もなく使うビートルズの度量にはあらためて驚くほかないが,これがビートルズとしての最後のレコードであることを考えると,ラストナンバー『ジ・エンド』の歌う,"And in the end, the love you take is equal to the love you make."という言葉は,余りに多くの示唆を含んでいる。 |