Time after time〜花舞う街で〜

  1. Time after time〜花舞う街で〜 作詞:倉木麻衣 作曲:大野愛果 編曲:Cybersound
  2. Natural 作詞:倉木麻衣 作曲:大野愛果 編曲:Cybersound
  3. Time after time〜花舞う街で〜(Instrumental)

CD No.:GZCA-7011  Release:2003年03月05日

東宝配給アニメ映画「名探偵コナン 迷宮の十字路」主題歌


*オリコンデータ
  1. 最高順位:3 位
  2. 登場回数:17 回
  3. 初動枚数: 67,097 枚
  4. 累積枚数:144,461 枚

Personel:


 この曲は倉木のキャリアの中でももっとも解釈の難解な曲の一つと言うことができる。それまで,「洋楽」であることを主としていた倉木の曲は,ここに至って大きな転換を遂げる。"Time after time..."と英語詞は歌われるが,そこにはもはや"delicious way"の歌詞の音韻化はない。あるのは「一枚」を「ひとひら」「薄氷」を「うすらい」「水面」を「みなも」と読ませる「和歌」の世界である。

 この曲に関しては倉木自身が2003年10月京都学生祭典平安神宮ライブで

 「日本の春はここでこそ最も感じられる」

という京都の春をイメージして書いた詞だとのコメントがあるが,まさに,脱皮した"Mai-K"は新しい「くらきまい」に生まれ変わった感がある。曲は日本的なメロディに乗せてやさしく歌われ,ここでは倉木も細かな技巧を廃してあくまで素直に伸びやかに歌う。

 「風舞う・・・」からの第3メロディが存在するが,他の曲の時のようには激しく自己主張しない。

 曲の中で歌われる「花御堂」とは,京都で4月8日に「花祭り」という釈迦の生誕を祝う祭りが行われるが,その際設けられる花で飾った小堂のこと。この中に水盤に乗せた誕生仏の像が安置され,参拝者はその誕生仏の像の頭上から杓で甘茶をそそいで祝う。

 さて,それではこの曲のテーマは何か。「倉木麻衣論」でも触れたが,この問題に関しては京都造形芸術大学助教授の中路正恒先生による興味深い研究がある。(http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/「遊動の哲学のために」)

中路氏はこの中で,

 「もしも君に巡り逢えたら」とは、ほんとうは、わたしたちが死んで、またこの世に生れてきて、そしてその時また巡り逢えたら、ということなのである。だから「花御堂」なのである。今生の別れと、後の世の出逢いを繋いでくれるもの、祝福してくれるもの、お釈迦様の他にそんな存在があるだろうか? 「花舞う街」とは、だから、後の世の出逢いを、散り行く花とともに、お釈迦様が祝福してくれる、そういう街の姿なのである。」

と言う。

 もし,この詞が本当に中路氏の言うように釈迦を仲介とした輪廻転生への願いを歌う歌ならば,若干二十歳にして倉木はもはや「アイドル」とか「シンガー」とかいう言葉では表現不可能な段階にまで昇りつめた。そこで語られるのはもはや「哲学」であって,軽薄なポップの言葉ではない。しかし,たとえ倉木にそこまでの明確な意思はなかったとしても,彼女の中で何かが弾け,一つの転換期を迎えたことを示す歌だということは間違いなかろう。倉木自身のこの曲への言及を取り上げても

「その季節が訪れると「あの人にもう一度会いたい」と思う気持ち,この詞の中の"君"は,皆さんの遠い記憶の中にある思い出の人を想像して聞いてほしい」

と,輪廻転生にまでは触れないにしても,時間を越えた雄大な愛−もはや性愛(エロース)を超えた崇高な愛(アガペー)−の姿を歌おうとしていることは明らかである。「愛」をミクロの「個人対個人の恋愛」として捉えるだけでなく,「冷たい海」で少年犯罪やさまざまな現代社会特有の問題に苦しむ子供たちに「菩薩」のような姿で大きなマクロの愛(慈悲)を与えた倉木は,少なくとも現時点でかつて「菩薩」と呼ばれた山口百恵を超え,新たな日本音楽界のスタンダードとなった。そして,「Can't forget your love」で見せた時間壁の破壊を,この曲においてより一層深く,しかし優しく推し進め,

「人は皆孤独と言うけれど 探さずにはいられない誰かを」

とプラトンにおける原初的な愛の姿(*注)にまで到達させた。シンガーとしてアーティストとして作詞家として,倉木はまた一つステージを駆け上った。

 *注「プラトンにおける原初的な愛の姿」:

 古代アテネの大哲学者プラトンは「愛」について次のように語る。

 人間は昔は今の人間が二人くっついたような形態をしており,頭が2つ,手足は4本ずつあった。そのため,現在よりも2倍高い能力を有した。ところがこの人間たちはやがてその能力の高さゆえに不敵にも「神」に挑戦するようになった。そこで怒った神は人間たちを半分に切り離して,今のような姿に変えてしまった。現在の人間はその原初の姿をすでに忘れてはいるが,その記憶は潜在意識の中に息づいており,現在その切り離された半身を求めて彷徨う。これが,「愛」の姿だ…と。すなわち,倉木のこのフレーズには古来語られてきた「愛」のイメージが付きまとうのだ。

 余談ではあるが,このかつての人間は多くは「男-女」という両性具有の形でくっついていた。そのため,現在多くの人間は愛の対象として異性を求める。しかし,中にはもともと「男-男」や「女-女」という形態で結合していた者たちもおり,それらは愛の対象として同性を求める。古代ギリシアでは,同性愛は当たり前のことであったが,プラトンはこのような理論でそれを理論付けた。ただ,その「男-女」「男-男」「女-女」の3種の「愛」の中で最も価値が高いものは「男-男」の愛であるという。その理由は男同士の恋愛は肉体関係ではなく(不可能ではないが),精神的な関係になるからだと説明する。そして,これこそが「プラトニック・ラヴ(プラトン的愛)」なのである。


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