No.2


 しかしその前に,「それではなぜ今までは英語を多用していたのか?」ということについて考えてみたい。

 これは倉木自身が何度も言っていることであるが,ただ単に洋楽趣味という単純な問題からではなく,

 「言葉をあいまいにすることによって,聴く人にイメージの固定を行わせず,十人十色の聴き方を求める」

というところに意図があるようだ。すなわち,「Tonight, I feel close to you」の例をとれば,この曲をすべて日本語で歌えば,曲に登場する二人の関係は恋人なのか友人なのかは,日本人の耳にはある程度明らかになってしまう。しかし,そのどちらにも取れるような聴き方をしてもらい,そのときそのときの気分,状況などによっていろいろなイメージを持ってほしいからこそ,あえて英語で歌うということだ。

 よく言えば詩的な,しかしあえて悪く言えば責任転嫁的な曲ともなる。若い女性の間で断定したものの言い方を避ける「語尾上げ」言葉が流行していると問題になって久しいが,そういったところにも一脈通じるところがある。

 すなわち「どうとでも取れる」ニュートラルな存在感・・・それが倉木の魅力のひとつでもあったことは否定できない。「Love, Day After Tomorrow」で「あいまいに飾った言葉はいらない」と歌いながらも,実は倉木はその「あいまいな言葉」を駆使して独自の詩的世界を築き上げてきた。

 しかし,2003年「If I Believe」を発表した頃から倉木の音楽的スタンス,特に詩の分野で大きな変化が現れてきた。倉木はこの頃から不安定な「少女時代」を抜け出し,アイデンティティを確立し,確固たる自己を持って,自分の信じた対象を真摯に歌っていこうとする態度を打ち出してきた。倉木にとって,もはや「あいまいに飾った言葉」はいらなくなったのである。

 すなわち,今までの倉木はファンに対して

 「この曲どんなふうに聴こえる?」

と問いかけていたのだが,成長した倉木は今度は,

 「この曲はこう聞いてほしい」

と,ファンに対して自信を持って接するようになったのだ。そして,その傾向は今回の新曲で明らかとなった。私も「風のららら」以降の詩的世界の変化については注目していたわけであるが,ここに倉木ははっきりとした傾向を打ち出してきた。今後の彼女の詞は今までにもましてメッセージ性が強くなってくるだろうと考えられる。

 大人になった倉木をこれからも見守って生きたい。


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