「Mai-K研究」参考資料1
1.“60年代”の終焉 195年代末期に,プレスリーを始めとする多くのロック=ミュージシャンが,音楽シーンの第一線から去り,ロック不毛の時代が到来したことはすでに述べた。そしてまた,1960年代末期にも,同様の事態が起こったのである。 まず,ローリング=ストーンズの創立メンバーの一人であるブライアン=ジョーンズが,自宅プールで溺死体として発見された。次いで70年になると,ジミヘンドリックスが,自らの嘔吐物により窒息死し,また同年,ハスキー=ボイスの女性ロック=シンガーとして人気の高かったジャニス=ジョップリンが,心臓麻痺で急死した。これらすべては,ドラッグ(麻薬)が引き金となった事件であって,この頃から,ロック=スターとドラッグの関係は,切っても切れぬものになってきていた。 さらに世間を震撼させたことは,マネージャー,ブライアン=エプスタインの死後(1967,これもやはり睡眠薬による死であり,自殺の可能性もあった),結束を弱めつつあったビートルズが,1970年,ポール=マッカートニーの脱退宣言によって,その8年の歴史に終止符を打ったことである。このようにして,ロック=ミュージックはその精神的支柱を失い,70年代には新しい展開を迎えることとなった。 2.ポップ=ミュージックの多様化 1960年代というのは,世界がやっと戦後の混乱期から抜け出した頃であり,物資も現在ほど豊富ではなく,社会全体が現在よりもはるかに貧しかった時代である。そのような中では,人々の価値観は集約され,あるジャンルにおいて,他を圧倒するようなカリスマが登場しやすい。たとえば,政治の世界では,アメリカ大統領J=F=ケネディやキューバのカストロ首相,日本のスポーツ界で見ても,相撲の大鵬,野球の王・長嶋,プロレスの力道山など,ある世界で絶対的な権威を持つスターが登場した。しかし,70年代,社会全体が豊かになり,人々の生活にも余裕が出てくると,必然的に価値観の多様化が見られるようになった。当然,ロックもその例からは漏れなかった。ポピュラー音楽界には,1930年代のビング=クロスビー,40年代のフランク=シナトラ,50年代のエルヴィス=プレスリー,60年代のビートルズと,10年にひとり,他を圧倒するようなカリスマを持つスーパースターが現れるという伝説があった。しかし,人々の価値観が多様化し,個々人が自らの世界を持つようになった1970年代においては,そのようなスターは登場しなかったのである。実際,(音楽評論家の渋谷陽一が言うように,)「ビートルズのようなスターはこれからも現れることがあるかもしれないが,ビートルズを生んだ時代状況は二度と現れない」のである。 ところで,70年代初期を代表するアーティストと言えば,まずカーペンターズとエルトン=ジョンがあげられる。兄リチャードと妹カレンの,アメリカのカーペンター兄弟は,『イエスタデイ・ワンス・モア』などの巨大なヒット曲を連発し,イギリスのエルトン=ジョンは,その哲学的な歌詞と(作詞はバニー=トーピン),ピアノの弾き語りによる美しいメロディ,そしてそれに似合わぬ奇抜なファッションで,『君の歌は僕の歌』『ダニエル』などの曲を,次々とヒット=チャートの上位に送り込んだ。彼らが70年代を象徴するスターであった理由は,そのレコード=セールスの巨大さにある。60年代末期において,すでに,ビートルズのシングル『ヘイ・ジュード』やアルバム『アビー・ロード』,サイモンとガーファンクルのアルバム『明日に架ける橋』は,約100万枚という,当時では信じられないようなセールスをあげていたが,70年代になると,それは当たり前のことになってくるのだ。 また,多様化したロックにはさまざまなジャンルが現れ,“ロック=アンド=ロール”は,まさに“ロック”の一分野となってしまった感がある。たとえば,アメリカでは『カントリー・ロード』のヒットでおなじみのジョン=デンバーが,“カントリー=ロック”を確立し,アメリカ南部からは,オールマン=ブラザース=バンドやレナード=スキナードなど,土の香りのする“サザン=ロック”が台頭してきた。 また,ブリティッシュ=ロックには,70年代を特徴づける3つの大きな動きがあった。 その第一は,“ハード=ロック”の発達である。60年代末期から,エレキ=ギターやPAPAシステムの発達によって,大音量のロックの時代が始まりつつあったが,ついには,演奏が伴奏の域を越えて,それ自体がひとつの目的となり,ボーカルはひとつの“楽器”化するという,破壊的でゆがんだ音響による,攻撃的音楽を演奏するバンドが出現した。その発端は,エリック=クラプトンのいたクリーム,ザ=フー,キンクスなどであるが,このハード=ロックは,やがて,ブルースを基礎にロバート=プラントの金属的ボーカルとジミー=ペイジの速弾きギターで人気を集めた,レッド=ツェッペリンと,クラッシックの素養を基礎に,リッチー=ブラックモアのギターとジョン=ロードのキーボードをフューチャーする様式美を確立した,ディープ=パープルによって完成してゆく。そのほかに,ジェフ=ベック=グループ(ボーカルはロッド=スチュアート)など,テクニカルな演奏を売り物にするグループの時代が訪れ,クラプトン・ペイジ・ベックは,“3大ロック=ギタリスト”とも呼ばれた。この流れは,70年代中期に,故フレディ=マーキュリー率いる,クイーンなどの“美的方向”と,歌舞伎役者のような奇怪なメイクと,ステージで火を吹くパフォーマンスで人気のあった,キッスなどの“悪魔的方向”へと,二分展開し,特に後者からは,黒い革に金属の鋲を打ちつけた衣装を特徴とするためにヘヴィ=メタルと呼ばれる,ジューダス=プリーストやブラック=サバスなどのバンドが登場し,一部に熱狂的な人気を誇った。この流れはヘヴィ=メタルをメロディアスにした,ニュー=ジャージー出身のボン=ジョヴィのメタル=ポップへと受け継がれ,80〜90年代になっても人気は高い。 第二は,プログレッシヴ=ロックの登場である。ギターよりもキーボード(シンセサイザー)を中心とした音作りを行ない,クラッシックやジャズの要素を多く取り入れ,非常にテクニカルな演奏をするロックをこう(略してプログレ)呼んだのだが,エマーソン=レイク&パーマー,キング=クリムゾン,ピンク=フロイド,イエスなどの演奏は,ときには1曲20〜30分にも及ぶ長大なもので,かつてのラジオで放送するための3分のポップスとはまったく異質の“芸術作品”になった。 第3はグラム(グラマラス)=ロックである。“グラマラス=ロック(魅力的なロック)”とは,中性的な化粧や衣装をまとったデカダンス(頽廃)と紙一重の人口的な都会派のロックを指すが,実際その創始者でもあるデヴィッド=ボウイはイギリスの音楽雑誌の人気投票で,“男性歌手”部門と“女性歌手”部門の両方にチャートインしていたのである。グラム=ロックの代表としては,その他に故マーク=ボラン率いるT=レックスがあったが,“この化粧をしてロックを演奏する”というスタイルは,現在のロック=シーンにまで大きな影響を与えている。 さらに70年代中期になると音楽界は錯綜し,さまざまなジャンルの音楽を融合したクロスオーヴァー=ミュージックという分野が成立してきた。これはAOR(“アダルト=オリエンテッド=ロック〈大人向けロック〉)とも呼ばれたが,ジャズの分野からロックに接近し,大幅に電気楽器を取り入れたマイルス=デイヴィス,ハーヴィ=ハンコック,チック=コリアらの音楽はフュージョンと呼ばれた。他にもロックとソウルを結合したドゥービー=ブラザーズやボズ=スキャッグス,アメリカの古き歌謡曲の伝統(ティン=パン=アレイ音楽)を受け継いだピアノ弾きのシンガー=ソングライター,ビリー=ジョエル,フォークやカントリーの味わいをロックで調理したイーグルズ,リンダ=ロンシュタットらのアーティストが登場した。また,“ウーマンリブ”の時代の洗礼を受けて,ロンシュタットのほか,カーリー=サイモン,ジョニ=ミッチェル,スージー=クワトロ,オリヴィア=ニュートンジョンらの女性ロックスターが次々と現れたのもこの時代のことであった。 3.ロック=ビジネスの超巨大化 前述したように,70年代初頭からロックビジネスは巨大化の一途をたどっていたが,70年代後半になるとその傾向は一層顕著になり,100万枚以上の売り上げを誇るアルバムが続出し,ロック=ビジネスはその頂点の時代を迎えた。実際,ピーター=フランプトンのライヴ『カムズ・アライヴ』,イーグルズの『ホテル・カリフォルニア』,フリートウッド=マックの『噂』,映画『サタディ・ナイト・フィーヴァー』のサウンド=トラックなどの巨大な売り上げは,前時代までの常識をはるかに越えたものであった。 4.黒人音楽の新たな展開 1970年代中期頃より,黒人音楽において,スタイルだけでなく,音楽そのものに大きな変化が起こった。それは,それまで基本として8ビートで演奏されていたロック(ソウル)が16ビート化されたということである。スライ&ファミリーストーンなどによるこの流れは,時を同じくして現れたディスコブームと結合し,ダンス音楽の新潮流を生み出した。その頂点に立つものは,(白人ではあるが)ビージーズなどのアーティストが中心となったジョン=トラボルタ主演の映画,『サタディ・ナイト・フィーヴァー』のサウンド=トラックであり,このアルバムの爆発的ヒットは,多くのミュージシャンをディスコ音楽へと向かわせたのである。 5.ロックと社会・政治問題の関係 また,70年代から80年代にかけて顕著になってきたことに,ロックの“上位文化”昇格にともない,ロック=スターが政治や社会問題に関して積極的な発言を行うようになってきたということがある。実際,70年代には2度目の妻ヨーコ=オノとともに平和運動家として活躍したジョンレノンも,60年代にはマネージャーから厳しくベトナム戦争に関する発言を禁止されており,65年に彼が不用意にも「ビートルズは今やキリストよりも人気者だ」と発言した時には,アメリカでビートルズ=ボイコット運動さえ起こったのである。しかし,積極的な発言を続けるボブ=ディランなどの運動は,やがてエスタブリッシュメントの世界でもとり上げられるようになってきて,ロック=スターたちは,社会・政治問題解決のための発言を積極的に繰り返すようになったのである。例を挙げれば,1971年,ジョージ=ハリスンは友人のミュージシャンに呼びかけ,バングラデッシュ難民救済コンサートを開催し,ポール=マッカートニーやジョン=レノンはイギリスのアイルランド政策に反対する曲を発表し,サイモンとガーファンクルはアメリカ民主党支援のためのコンサートを企画した。特にロックによる難民救済の流れは,国際連合とポール=マッカートニーが中心となって行なった70年代末期のカンボジア難民救済コンサートをへて,1984年頃からの東アフリカの大飢饉救済の運動へと発展していった。 アイルランドのロック=バンド,ブームタウン=ラッツ(『哀愁のマンディ』のヒットで知られるが,それほどの大物グループではなかった)のリーダー,ボブ=ゲルドフは,イギリスのロック=ミュージシャンにエチオピア難民救済のためのチャリティレコードの制作を呼びかけ,ここに夢のオールスター=プロジェクト“バンド=エイド”(Band Aid)が結成され,彼らが歌った『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』はイギリス音楽界史上最大のヒット曲となった。この動きに触発されたアメリカのミュージシャンも,ハリー=ベラフォンテ,クインシー=ジョーンズ,ライオネル=リッチー,マイケル=ジャクソンらを中心に“USA〈ユナイテッド・サポート・オヴ・アーティスト〉・フォー・アフリカ”を結成し,『ウィー・アー・ザ・ワールド』の大ヒットを生んだ。やがてこの両者は結合し,85年にはアフリカ難民救済のため,ロンドンとアメリカのフィラデルフィアを結んで,延々12時間行われたコンサート,“ライヴ=エイド”が開催され,大成功を納めた。この結果,ボブ=ゲルドフは,一時その年のノーベル平和賞候補にも擬せられたのであった。ここに至って,ロックは社会をも動かす力を持つことが明らかになった。
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