「Mai-K研究」参考資料1

 「ロックの歴史」(〜1990's)No.3


第3章−ロック=アンド=ロール創世期〜エルヴィスとその時代

1.プレスリー登場

 1954年,テネシー州メンフィスの若きトラック運転手,エルヴィス=アロン=プレスリーが最初のレコードをレコーディングし,1956年にエド=サリヴァン・ショウに出演し,『ハートブレイク・ホテル』を歌ったとき,ロック=アンド=ロールは新しい歩みを始めた。ビル=ヘイリーとは違い,若く,甘いマスクとセクシーな肉体をもった彼は,『ハートブレイク・ホテル』『監獄ロック』などの激しいロック=アンド=ロールや,『ラヴ・ミー・テンダー』などの甘いバラードで,たちまち全米の若者たちの心をとりこにし,またたく間に世界中の若者のスーパーアイドルとなった。こうしてロック=アンド=ロールは,大人たちの眉をひそめさせながらも,確実に“若者の文化”となったのである。(実際,エルヴィスがアメリカのテレビショウ「エド=サリヴァン・ショウ」に出演した時には,テレビ局は非難を恐れて,エロチックにうごめくエルヴィスの下半身を放送しなかった。)

2.ロック=アンド=ロールの発展

 プレスリーの登場と時を同じくして,アメリカに初期ロック=アンド=ロールのスターたちが,きら星のごとく登場した。『ロック・アンド・ロール・ミュージック』『ジョニー・B・グッド』で知られる,ロック=アンド=ロールの詩人チャック=ベリー(黒人),圧倒的な声量とファルセット唱法で,『ロング・トール・サリー』のヒットを持つリトル=リチャード(黒人),バンド“クリケッツ”を率い,ギターバンドの基礎を築いたバディ=ホリー(白人),ロカビリー(カントリー=ロック)ブームの立役者カール=パーキンス(白人)やジェリー=リー=ルイス(白人,『火の玉ロック』)らは,その独特のスタイルで,あっという間にアメリカの音楽界に支配的な地位を打ち立てたのである。(その他にはエヴァリー=ブラザーズ(白人),ファッツ=ドミノ(黒人),ロイ=オービスン(白人)らがいる。)

 この時期のロック=アンド=ロールの特徴は以下のようなものであった。

  1. 和音(コード)進行は単純で,往々にして"A D E"などの3つのコードで作られており,メロディも概してシンプルである。
  2. 歌詞にはあまり芸術的な内容は感じられず,主に恋愛・自動車・学校・パーティ・旅行などのティーンエイジャーの日常生活を主題とした,ストレートで世俗的なものが多い。
  3. ビッグバンドではなく,少人数のグループで演奏され,リード楽器として電気ギター,サックス,ピアノが活躍する。
  4. 8ビートのリズムで演奏されるが,4ビートの感覚が残っているものも多い。
  5. 演奏に揺れるようなリズム感がある。
  6. 演奏や歌は荒々しく叫ぶようであり,しばしばすごくカン高くなる。
  7. 奏者はリズムにあわせて,ダイナミックに体を動かしながら歌ったり演奏したりする。

  (『ロック−スーパースターの軌跡』 北中正和 講談社現代新書より)

 トーマス=エジソンやグラモフォンによって発明されたレコードは,20世紀初期にはラジオに次いで実用化されてはいたが,1950年代までは78回転のSPレコードが主流であり,一般的には普及の度合いは低かった。しかし1950年代半ばに,製造過程が単純で,割れにくく運びやすい45回転シングルレコードが一般化し,45回転シングルと33回転LPの両方が演奏できるプレーヤーが発売されると,ハイファイ=オーディオ=システムが急速に普及し,それに伴って,シングルレコード収録時間に適当な2〜3分の演奏時間のロック=アンド=ロールも,若者たちの間に急速に広まっていったのである。

3.ロック=アンド=ロールの死

 このように隆盛の一途をたどってきたロック=アンド=ロールであるが,1950年代末期には,壊滅的な打撃を受ける事件が続発した。

 1958年,軍隊に徴兵されたエルヴィス=プレスリーは,兵役忌避が可能であったにもかかわらず,“愛国者”の姿を全うするため徴兵に応じ,西ドイツ(当時)の部隊へと配属され,2年間芸能界から姿を消すこととなった。また,華麗なピアノ演奏で人気のあったジェリー=リー=ルイスは,前夫人との離婚手続き終了以前に14歳の従姉妹との結婚を発表し(1958),この“重婚”のスキャンダルによって,芸能界から干されてしまった。さらに1959年,バディ=ホリー,リッチー=ヴァレンス(『ラ・バンバ』の大ヒット)らのロック=アンド=ロール=スターたちを乗せた飛行機が墜落し,同年,人気絶頂のリトル=リチャードは突如芸能界を引退し,キリスト教伝導生活に入った。またチャック=ベリーは,黒人差別的な判決で,当時すでにほぼ死法となっていた“売春婦移送法”違反により,2年間の服役を余儀なくされ,1960年には自動車事故でエディ=コクランが死亡し,同乗のジーン=ヴィンセント(『ビー・バップ・ア・ルーラ』のヒットで知られる)も重傷を負った。このようにして1950年代末期“ロック=アンド=ロールの死”とも言うべき大事件が続発し,ロック=アンド=ロールの人気は一時的に衰退せざるをえなかった。

 この間隙を埋めたのは,コニー=フランシス(女性)・ニール=セダカ(『カレンダー・ガール』)・ポール=アンカ(『ダイアナ』の大ヒット)らの,口当たりがよく,ソフトで無害なティーン=エイジャーのアイドルたちであった。彼らの音楽は,確かに若者たちに爆発的に受けはしたが,ロック=アンド=ロールを知り,若者特有のフラストレーションのはけ口を,ロック=アンド=ロールの反抗のエネルギーに見いだしていた若者たちにとって,何か物足りないものであった。エルヴィスなきあと,若者には,誰か自分たちの代弁者が必要であった。

4.ロック=アンド=ロールの商品化

 ロック=アンド=ロールが若者に受け,商売になることが分かると,ティン=パン=アレイの音楽業界も,ロック=ビジネスに本格的に参入してきた。ジェリー=ゴフィンとキャロル=キングのソングライター=チームや,ニール=セダカバート=バカラックなどのプロフェッショナルが次々に名曲を生み出し,ハリウッドで活躍したフィル=スペクターは,“売れるレコード”を制作する仕事としての“プロデューサー”の役割を確立した。また,ロス=アンジェルスのビーチ=ボーイズは,底抜けに明るいウエストコースト=ロックを作り上げ,ロック=アンド=ロールビジネスは,完全に商業ベースに乗ってきた。

 一方,その反動で,ティーンアイドルに飽き足らない学生たちに,フォーク=ソングの人気が高まっていた。中でもボブ=ディランは,1962年の『風に吹かれて』以来,哲学的で難解な歌詞と,その,媚びない朴訥なパフォーマンスで,一部にカリスマ的な人気を獲得していた。彼は黒人差別や反戦運動など,社会問題を鋭くえぐる作品を発表し続け,いわゆる“抗議の歌(プロテストソング)”というジャンルを確立し,一世を風靡した。このフォークの流れは,ピーター=ポール&マリージョーン=バエズらによって受け継がれてゆくが,そこには,歌詞の内容の面で革命的な進化があったものの,若者の反抗のエネルギーのはけ口である“ビート”がなかった。ディランは,決してエルヴィスにはなれなかったのである(なる気は毛頭なかったろうが)。フォーク=ソングが大衆的なものになるためには,ビートを効かした,フォーク=ロックの出現を待つ必要があった。そしてやがて,ディランはフォーク=ギターをエレキ=ギターに持ち替え,サイモンとガーファンクルは,エレクトリック版『サウンド・オヴ・サイレンス』の大ヒットを生むのである。しかし,まだまだアメリカの若者たちには,“自分たちの”音楽が存在しなかった。そして,1964年,それは海の彼方から突如としてやって来た。